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不赘述,接上篇。
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八箇の第一刀を中眼刀と云ふ。此中眼と云ふ事不詳。予因て篠崎が伝へたる私記を閲するに、不偏の場合にて、眼に志し進むと云ふ。此不偏の場合と云ふは、則中道の事にして、敵の撃出すとき、我斜より撃合る也。眼に志すと云も、亦中道にして、斜より撃ち合せたる太刀は、これ中段の事なるゆゑ、其太刀即便に敵の面中に当つる也。総て剣法に眼称る者は、皆面部を指す也。眼とは是双眼の間、則中道也。此後の太刀敵の面部に当る事、則清眼刀なり。因て此中眼の称る事は、中道清眼刀と云ふべきを、中略して中眼刀と云ひたる也。篠崎又曰く。此刀の名、師の伝を聞かず。此刀もと本心刀流の名にして、是より伝所也と。然ども、本心刀流も亦名の義無き事なし。思ふに其義の伝はらざるなり。
八箇中的第一刀被称为“中眼刀”。所谓“中眼”一词的含义不明。于是我查阅了篠崎所传的私记,书中写道:“在不偏不倚的状态下,以‘眼’为目标进击。”这里所说的“不偏的状态”,即是“中道”之意。意思是,当敌人发起攻击时,我方从斜侧击入交锋。这种“以眼为目标”也是一种中道方式,从斜角交击的太刀,属于“中段”之法,因此该刀直接命中敌人面部正中。在剑术中,凡称“眼”者,皆指敌人面部。“眼”即是指双眼之间,也就是正中之道。此后的一击命中敌人面部之刀,称为“清眼刀”。所以所谓“中眼”的命名,其实应称为“中道清眼刀”,只是省略了部分表述,简称为“中眼刀”。篠崎还说:“关于这把刀的名字,未曾听师传授。”此刀原为“本心刀流”之名,由此传承而来。然而,即使是本心刀流,也绝不会无意义的命名,只是其意义未被传下来罢了。
又、常球子が予に与へたる口伝書には、中眼刀は、甲胄を着し打合、北条家又は山鹿流、其外諸家共、脚当或は脛立の間を、下段に構払ふ事あり。草摺を引上げ突く事あり。右両やうのふせぎ、当流にては中眼と打込み一本にとどまる。勝こと眼中にあり。是甲胄之勝也。故に中眼と云ふ。予近頃常明、常球両子と懇会すと雖ども、いまだ彼れに伝る所を学ず。故に其是非を断じ難しと雖ども、勝こと眼中にありと云ふときは、是其志ざす気なるや。抑も亦面部を謂ふや。然るときは、名を眼中刀と云ふベきを、中眼と云ひし事隠やかならず。此口伝書は、元祿八年是水、軍兵衛両先生の連名の記と謂と雖ども、其体、後の修飾多きが如し。竊かに思ふに、後の師、先師の名を借設けたる者ならん。恐くは此眼中を中眼と名ぜしの類、本義に非じ。
又,在常球子赠予我的口传书中记载道。所谓“中眼刀”,是在穿着甲胄进行对打时使用的技法。不论是北条家、山鹿流,还是其他各家流派,常会采取攻击脚部或胫部之间的空隙,采用下段姿势横扫,或是撩起裙甲进行突刺。而对于这两种攻击的防御,当流以“中眼”打入此一本应对,胜口在于“眼中”。这即是甲胄战中的胜利之术。虽然我近来与常明、常球两位交往甚密,但尚未学习他们所传的具体技法。因此虽难以断定其说的是非,但所谓“胜于眼中”这一说法,或许是指心志所向之处?抑或仍是指敌人面部?若是如此,其实应称为“眼中刀”,却称作“中眼”,便未免显得含混。
这部口传书,据说是元禄八年由是水与军兵卫两位先生联名所记,但文体看来多有后人润饰之迹。我私下推测,很可能是后代师者借用先师之名编撰而成。因此所谓“眼中”被称作“中眼”,恐怕并非本义所出。
又、中道と称る者、中道剣其本にして、下り藤等、皆中道の本形なり。然れども中道志破記、中道乱等、皆下段より始まる。故に中道は太刀の上下の形に拘らず。ただ打出だしたる太刀の、中墨を撃通すを以て中道と称る者なり。小太刀の中住別剣の如きも、進行の鋒勢、敵を中墨に当るを以て称す。見つ可し中の義ここに在を。
又,所谓“中道”,是“中道剑”的根本。诸如“下藤(中道下藤,后文有述)”等,皆是中道之本形。然而,像“中道志破记”“中道乱”等技法,皆从下段开始。因此,中道并不限于上段或下段,而是指太刀正好击中敌人“中线”之处,故称之为“中道”。就如“小太刀”的“中住别剑”那样,其进击之锋势也是瞄准敌人中线,因此也被称作“中道”。可见,“中”的含义即在于此处。
此太刀は、敵上段より撃来る者を、左右に受流す太刀なり。右旋刀は、我れ丸橋に構へたるを、敵撃来るときの太刀、左転刀は、我れ清眼に構たるを、敵撃来るときの太刀也。まづ其使ひ方は、我れ丸橋、或は清眼なるに、敵撃来るを受る者と雖ども、其実は、敵を右、或ひは左にうけたる時の太刀なり。右或ひは左にうくると云ふは、向ひ来る敵、我が左りに駆違ひさまに打つ者は、我丸橋にして之を受け、其太刀を右に旋して、敵の左を返撃す。故に右旋の名あり。左転も亦同くして、向ひ来る敵、我が右に駆違ひさまに撃つときは、清眼にして之を受け、其太刀を左に転じて、敵の右を返撃す。因て左転の名あり。是奈んして斯の如しと云へば、伝来する所馬上剣と謂つて、敵と馬上に行き逢ふとき、剣を以て相戦ふに此法ありと云ふ。畢竟馬上は自在ならずして、馬足に随ふものなれば、此の如しと云。即伊庭の口伝秘書に記る所は、右旋刀左転刀二ケ条は、馬上にて敵に向ふ太刀打也。敵我が右え来るときは、丸橋を用ゆ。敵我が左え来るときは、清眼を用ゆ。故に右旋刀左転刀と云とあれば伝へ来るいづれも此の如し。さてこの右旋左転の事、刀法いかんと云ば、先づこの旋転の字を以て名と為し事、尤なる事也。此名は、吾が先師の名づけしにも非ず。既に進履橋と云へる、上泉武蔵守秀綱より、柳生但馬守宗矩に伝へし書にも見えて、其由ある事と聞ゆ。今旋転の義を云はんに、「旋」はめぐると読み、説文に、「旌旗之指麾に周旋する也。㫃に从び疋に从ぶ。疋は足也。徐鍇が註に、人足旌旗に随ひ、以て周旋する也と見ゆ。則此語の如くにて、軍将旗を以て兵卒を使ふに、其旌指に随てつき行を謂ふなり。剣法も亦斯の如くにして、敵より撃つ太刀を、我が刀杪に受けて、乃ち其擊勢に随つて、激回以て其敵に当る。刀法は既に前に言へり。是旋たる所なり。虚字解にも、旋は、くるりとかへる也。又、物の外にそひて、くるりとまはる事と見ゆ。皆同意なり。転は、まろぶと読み、詩の周南に、輾転反側と見えて、注に輾者転之半、転者輾之周とあり。虚字解に、転は、ころばす事とあれば、物に随つて、くるりと回行なり。乃刀法は、前の旋刀と不異。右旋左転と云ひしは、左右の字を異にせし耳なり。茲を以て、学ふ者発覚すべし。又摩利支天経の、心印真言の条に、左手金剛挙を作し、心上に按じ、随て真言を誦す。右手の印を以て頂上に於て左転する事三帀、一切の障難を作す者を辟除し、便ち右旋する事三帀、并に上下を揮、即ち十方界を成結し、一切の天竜、人、非人等、附近く事能はず。斯の如くあり。是も見るべし。頂上に於て左転する事三帀と云ふは、呪師の指にて印を結びて、あたまの上にて、左に三席、くるくると回す事を云ふ。下に右旋とあるも、其印を、また右回に回して、其修法を成結事なり。
此太刀应用于从敌人的上段攻击中,将其刀势向左右引导偏开的太刀。所谓“右旋刀”,是我方在采取“丸桥”之构,应对敌人攻击时所用的太刀;“左转刀”,则是我方在“清眼”之构,应对敌人攻击时所用的太刀。首先,其使用方法虽然看似是我方在“丸桥”或“清眼”构时用以迎击敌人的太刀,但实际上是指我方将敌人的攻势引向右方或左方的太刀。所谓“引向右方或左方”,是指面对来敌时,若敌人从我左方掠过挥击,我方以“丸桥”姿态接住其刀势,将太刀旋向右边,反击敌人的左侧,因而得名“右旋刀”。“左转刀”亦同理,当敌人从我右方掠过挥击,我方以“清眼”姿态迎击,再将太刀转向左方,反击敌人的右侧,因而得名“左转刀”。
那么,为何会有此技法?据说,这是因传承自马上剑术,即在马上与敌人交会之际,以剑作战的技法。究其根本,因人在马背上难以自由行动,需顺应马的步伐,因此便有了此类技法。
正如《伊庭口传秘书》中所记:右旋刀、左转刀这两条,是在马上面对敌人时的打法。敌人若从我右侧而来,用“丸桥”;若从我左侧而来,用“清眼”。故称之为“右旋刀”“左转刀”。因此,历代传承都是如此。至于“右旋”“左转”的刀法名称,其义何在?首先“旋”“转”两字本身作为名称是非常妥当的。这些名称并非由我流祖师所创,而是早在“进履桥”,即上泉武藏守秀纲传给柳生但马守宗矩的文书中就已出现(三学圆之太刀)。虽然我尚未学到这些具体技法,但从其名称可略窥其法理。而且,上泉所传之技称为“新阴流”,因宗矩在技艺上声望极高,人们便不再称“新阴流”,而称“柳生流”。又我流祖是水曾向柳生门下学艺,据传亦深得其术,因此可以认为这两种太刀最初出自柳生流,其名称也沿用了旧称。
现在来说明“旋转”之义。“旋”即“回转”。据《说文》:“旌旗之指麾也,周旋之意。”由“㫃”与“疋”构成。徐锴注释说:“人之足随旌旗行动,谓之周旋。”这就如军将以旗号调度军队,士卒则随其指挥前行。剑法亦如是。当敌人的太刀来袭时,我方用刀的前端去接住它,然后顺着其攻击势头,旋回一击,反击敌人。此即所谓“旋”。《虚字解》亦曰:“旋,谓回转也。”又曰:“沿着物体外缘回转。”含义一致。
“转”即“滚动”。《诗·周南》曰:“辗转反侧。”注释曰:“辗为转之一半,转为辗之周也。”《虚字解》则说:“转为使其滚转之事。”皆表示顺着某物而回转之义。此与先前所述“旋刀”并无二致,所谓“右旋左转”者,仅是左右字义不同而已。学者应能由此领悟其义。
此外,《摩利支天经》的“心印真言”一节中也提到:左手作“金刚挙”印置于心口,念诵真言。右手之印则在头顶“左转三周”,以辟除一切障碍;再“右旋三周”,上下挥动,从而形成结界,令一切天龙、人、非人等无法靠近。此亦可为参考。所谓“在顶上左转三周”,是指修法者以手指结印,在头顶左转三圈;之后再“右旋”,是用手指结印在右边转三圈,以成其修法之结界。
茲を以ても、右旋左転の、くるりと回塩梅は知るべし。此の呪師の印は、静に廻し、剣術は、迅速に回すの違ひなり。攷へ合はすべし。此外にも、真言偈の中に、次に金剛智剣の印を結ふ。止観相刃つて満月を作す。忍願皆豎てて剣形の如し。心及び額喉頂上に印し、即護身を成し本尊を豎つ。徐徐として散下し垂帯の如く、止観旋転する事舞勢の如し。此の如くありて、亦旋転の事を云へり。下もに舞勢の如しとあれば、くるりくるりと回るかたち、滞りなく回を謂ふ。剣術の敵刀に撃れて、迅に激回すると思ひ比べし。
从上面所述内容中可以理解“右旋左转”所表示的那种快速旋转回转的动作方式。 密教修法中所说的咒师结印,是缓缓地旋转,而剑术中的旋转动作则是迅速敏捷地完成,两者之间的差异应加以对照理解。除此之外,在真言偈文中还有类似内容,例如结“金刚智剑”(象征佛陀智慧之剑)的印时:“止观相刃”(即通过止息杂念、内观本性,感悟真理)形成一把“满月”(圆满清净之意)的刃;“忍愿皆竖”,即所有修行意志如剑般直立,形成剑的形状;然后在心、额、喉、顶上结印,从而形成“护身”,竖立起本尊;再缓缓地散下,如同垂带飘落一般;“止观旋转,如舞姿之势”,也就是说,以“止观”的方式进行旋转,如同舞蹈的动作一般。从这里也可以看出,“旋转”的动作是持续不断、顺畅自如地旋转的意思。结合剑术来看,当敌之刀斩来时,我方迅速地激烈回转予以应对,这一点与上述修法中所描述的舞势式旋转可作类比。
此水月は、一子相伝六刀の中の一本なり。教法に其形を言ふと雖ども、其旨理の刀として、専らに其形を伝ふる事なし。予考るに、此水月の刀は、彼陽より撃を、我清眼に構へて之に応るの形を教へて、而其理を伝ふ。是固より然る事なれども、此水月以下、下り藤、忍誠、杖威、飛竜、竜車の五刀、皆各の専ら形を教へ且亦勝術あり。然るに水月の一刀に至つて理を以てする事、全く先師の意に非ずして、其伝を失せる也。故に予下藤以下の五刀に拠り、且つ其名とを以て其術を察するに、水は静にして動く者なり。故に静処に動を発るを謂ふ·月は訓都岐、即搶と通うず。校猟の賦の註に、搶は猶刺のごとしとあり、是なり。其事如何と云はば、敵と対するとき、我敵と気を以て応じ、敵其中動く者あれば、即鋒を以て之を搶く。敵発撃すれば即我退き、敵刀を揚れば即進んで之を搶く。是即水月の名の起る所なり。今俗語にして之を言ば、動きを突と云べし。茲を以て千変の応は之を忖度べし。一体此刀を爰に出し、且其形を秘せし者は、刀を以て突く事易くして、撃事は易からず。然ども突く事の易き、其機を以て為ざれば亦易からず。故に直に初学に之を教るときは、其機を知らずして而浪突す。斯の如くなれば、必ず敵の為に撃手せらる。因てここに其機を知りて而して突事を教たる也。故に一子相伝の秘とす。猶委しき事は其術を伝ふるに至つて知るべし。伊庭氏の口伝秘書に云ふ所は、水月刀、敵の業を移し、我実を写す。則動きに心を付べし。是を移写水月の位と云ふ。故に水月刀と云ふ。是にても分り難也。移写水月の位ど云ふは、常智子の口伝書に述て、理を説ける也。刀の使ひやうには非らず。然ども、伊庭の書に動きに心を付べしと云ひたるは、即古伝の存せるを知るべし。常智子の口伝書に云へる所は、威は、静にして千変を具し、勢は、動じて万化に応す。故に威を以て敵に合はせ、勢を以て敵に勝者也。是を水月の位と云ふと。其余この水月の事を述たれども、皆理を説るにて、刀法には非ず。然るときは既に記る如く、相伝六刀の一刀に在る者は、専ら動きに当つて之を搶の術と知るべし。猶下り藤以下の五刀の条と通看して之を察べし。
此“水月”是“一子相传六刀”中的一刀。虽说在传授法中有提及其形,但作为一把重在理的刀,并不专门传授其具体形。依我所考察,这“水月之刀”的传授是在敌方阳击而来时,我方以清眼之构应对,并依此传之理。本就理应如此,但从“水月”后的“下藤”“忍诚”“杖威”“飞龙”“龙车”等五刀来看,它们皆以具体的形为核心来教授,同时也各有胜敌之术。然而,仅“水月”一刀偏重于理法,这并非先师的本意,而是由于其传承失落所致。故我依据“下藤”以下五刀,并从它们的名称推测其术理。“水”是静中有动之物,故所谓“于静处发动”;“月”的训读为“都岐(つき)”,与“搶”相通。校猎赋的注释中写道:“搶,如刺”,正是此意。
那么它的技法究竟如何呢?面对敌人时,我们以气应敌,当察觉敌方欲动,便以锋刃突刺之;敌人发动攻击则我方后退,敌人举刀则我方前进并突刺。这便是“水月”名称的由来。用现代通俗的话来说,就是“在动处突刺”。由此可见其应变多端。
总体而言,此刀之所以设立但又秘不传形,是因为以刀突刺容易,但以刀劈砍却并不简单。然而,即便突刺看似简单,若要把握其机也并不容易。因此,若直接向初学者教授此刀术,则因不明其机,必会胡乱突刺,如此必会被敌所乘。故此,必须先知其“机”,再传其“突法”。因此,此刀被列为“一子相传”的秘法之一。至于更详细的内容,需在实际传授其术时才能得知。
伊庭氏的《口传秘书》中写道:“水月刀,移敌之业,写我之实。故须关注敌之动。”此被称为“移写水月之位”。所以名为“水月刀”。但即便如此,也仍难理解。“移写水月之位”这一说法,出现在常智子的《口传书》中,是为说明其理法,而非刀的使用方法。尽管如此,伊庭的书中写“须关注动静”这一点,足以证明古传尚存。常智子的《口传书》中说:“威,静而具千变;势,动而应万化。故以威合敌,以势胜敌。”此即所谓“水月之位”。其他关于“水月”的记述,也多在于说明其理,并非刀法。
因此,正如前所述,既然“水月”列入“一子相传六刀”之一,当将其视为针对“敌动之时”而行“突刺”之术。应结合“下藤”以下五刀的内容一并参阅考察。
此太刀の名、何為故未だ詳ならず。余考るに、中道は固より我の形を云者にして、異義無し。下藤の下は、彼の拳の下るを云ふ。藤は読の如にして、不時と通ず。不時は不意と同ふして、もとより俗称なり。彼の陽刀の下に、我が刃鋒の、不意に出当するなり。故に、不時を藤の読に隠て、此名あると覚ふ。爰に其証を云はば、常全子の門人に、大嶋左太夫と云ふ人、其僕の為に教戒する事ありしに、僕之を恚り、窃に左太夫を害せんと欲し、或日、股牽を着、半纏を服て、身軽に出で立、刀を抜て左太夫に向ふ。事不意に出で為す所を知らず。左太夫輒ち腰刀を抜出したるままに、彼が上段より打込む所ヘ、不図為覚たる太刀を、中道より打出したれば、僕俄に其太刀を執落て、之を取んと俯たる所を、左太夫廻す刀に、僕が俯たるままに、上より大袈娑に打放して、乃勝を得たり。時に左太夫思ふに、僕が上段の太刀を執落せしに因て、我勝を得。いかに過けんと、僕が死骸を視るに、僕が右手の四指ともに切れて有らず。ここに於て始て心付て、中道の剣に、下藤の妙処ある事を知れりと云。此事伝説に非ず。此時常智子先生も其場に至り、目のあたり之を視る。鷃斎師は則此話を聞て伝ふ。又此時、常智子も往て、左太夫と共に死骸を検しとき、僕が指の無を不審に思ひて、之を覓れどもなし。久之して、傍かる叢の中に飛散て有しを見出しぬと。茲を以て考るに、陽刀の疾き、之を邀るに捷刀を以て為るときは、則其勢にて乗じて、指も亦斯の如く飛散せし事知ベし。是則前に言へる、此太刀の一験と為べし。
此太刀名的来源,至今尚未详明。依我所考,中道原本就是指我方的形,此无异议。而“下藤”之“下”,是指对方挥刀时拳头下落之意。“藤”字的训读音为“ふじ”,音通“不时”,即“不意”,是一种俗称,意指突如其来之意。当敌之阳刀打来之时,我之刀锋出其不意地迎上。这就是“藤”的意涵。故以“不时”的意义藏于“藤”的训读之中,形成了“下藤”这一名称。
若要举出证据,常全子有一门人,名为大岛左太夫。有一日,他的仆人因受到其训斥而怀恨在心,暗中欲加害其主。某日,仆人穿好系腿绑带,穿半缠(与羽织类似但短且薄的外衣。常见于拉面馆的店员、庆典摊位老板等),装束轻便,拔刀直向左太夫袭来。事情突如其来,毫无预兆,左太夫一时不知所措,只得立即拔出腰间佩刀。当对方自上段猛然砍来时,左太夫本能地以中道之势出刀,刚好击中来刀,使得仆人手中之刀脱手落地。仆人见刀落地,便俯身去拾,左太夫顺势大袈裟打去,趁机一击得胜。事后左太夫思索,之所以能得胜,是因击落了仆人的刀;可再看尸体时,却发现仆人的右手四指全被斩断,这才恍然大悟,意识到自己是靠“中道之剑”中的“下藤”之妙处取胜。
此事并非传闻,而是实事。当时常智子先生亦在场,亲眼目睹。鷃斎师便是听此故事后而加以传述。据说当时常智子与左太夫共同检视尸体时,发现仆人的手指全无,心生疑惑,四处寻找,最后才在旁边的草丛中发现断指散落。由此可以推断:阳刀来势迅猛,若以轻快之刀迎击,顺其势斩出,则对方之指也可因此飞散。这正是前文所说的一例实证。
又、曰。藤は、艹下に勝の字を从べるを以て彼の下に於て、勝を得るの事とも云ふべきか、藤は音騰、藟也と云て、則ふぢなり。

は音勝、苣藤胡麻也と注し、藤同じからず。但し、是は字義、元より是程に穿鑿せし事には非れども、又一つの疑なれば此に云へり。然るときは、前に不意の説を云し事従ふべし。
又曰:藤字由“艹”加“勝”字构成,因此也可以理解为“在对方的下方取得胜利”的意思。“藤”与“腾”同音,本义为“蔓藤、藟”;

音读为“胜”,在注解中解释为“苣藤胡麻”,与“藤”并不相同。不过,这种字义上的考证,本来也不是此处原本就特别深入追究的问题,但既然是一种疑点,故而顺便在此提出。因此,前面关于“藤”通“不意”的说法,仍应当作为主说而采纳。
此太刀は、敵と相峙たるに、彼は陽に構へ、我は中道に構へて、位極になりて、先動者は敗をとるの埸に及んで、我忽其気を脱、膝を折、身を傴、首を低、太刀を背上に負、鋒を後に流、柄を頭前に進めて、鋭勢敵の手下に冒、柄を以て其心を撞。此法を謂て爾云。然れども其術名と当る事を知らず。先づ吾方の口伝を云はんに、此太刀は、其本一刀流の、獅子反敵と謂へる太刀より、是水先師の此法を考へて、此名を名ぜし也。これ敵刀を冒に及んで、能忍、誠の心を以て之に当り、以て勝を得と。まづ獅子反敵の説あれども、是は他門の事、推量ゆゑ言はず。且ここに益無き事なり。又敵刀を冒に及んで、能忍び、誠心以て之に当ると云ふ事、是斯の如くなるべけれども、剣法と観ときは、必ず此太刀のみにも限らざる事に思はる。然れば此術の動かざるの名とは言難し。又伊庭の伝は、口伝秘書に云く。剣忍誠は、敵の虚実を能見分け、堪忍を第一とす。中住を離れず、誠之道に至る時は、其勝明白也。故に剣忍誠と云。是も亦吾方の伝と趣意違はざれども、堪忍を第一とすと云事、何を何尺の堪忍とする。其当も知ず。誠之道に至る時と云も、何処ぞ誠之道なるや。是も知り難し。すれば徒剣忍誠と云名を見て、大抵推量して云たる様に思はる。然るゆゑに予が思ふ所を云ん。まず剣とは字の如にして、ここには敵の剣を云なり。則まへの剣法に見えたる、陽より撃下敵の剣也。忍とは刃と同音にして、刃はやいばと訓じて、刀のはを謂ふ。則我刀の刃也。まへの剣法に見えたる、敵下に冒、太刀を背上に負たるとき、我刀刃は天に向ふ、即是也。誠とは上と同音にして、前に云へる刀刃天を向ば、撃下敵の剣は、則我刃の上に当れば、因て名たるにて、連言すれば、敵剣を我刃上に受ると謂事也。総じて勝を得る事は、何れの刀とても、皆敵を我刃下に為ざれば得難し。然るに唯此太刀に至ては、独り敵刀を刃上に受て勝つの術なれば、兹を以て斯の如く名じたる也。乃剣刃上と云義なり。然れどもこの、敵の境中に入て勝のわざなれば、斯入る可きの機、遅速の当を得ざれば遂難し。茲を以て死生未分の場にて、此遅速を考るゆゑ、恐の義をもこめて此学を用たる也。忍は、説文に能也と云ひ、又強也と云ふ。則此場を能為し、出難き所を退かざる等の事、皆能強の義なり。又誠とは、字書に、純也、真実なりと註して、斯機会の場を得も、ここに敵の撃下す勢を受ば、後へ退べき心と為べきを、聊も其術に臆念せず。必勝の思ひを純一真実にして、 縦剣下に入り、冒進して勝を得る事、是も亦忍と同義にして、上の意に誠の義をもこめて、刃上忍誠相兼て刀名とせる先師の意なり。然るを従字を以て解する者は刀法と合はず、唯刀法を論ずる者は名と協へる事を求めず。是を以て吾が伝も彼の伝も、皆美善を成事能はず。因て此説を以て剣忍誠の術を知るときは、其術も得可く、両派の伝記も亦暁す可し。深く味ふ可き身。
此太刀是在与敌人对峙时,对方采取阳之构,我方则为中道之构,当双方形势逼近极限、率先发动者即为败者的局面下,我方忽然脱离其气,屈膝、弯腰、低头,将太刀背负在身后、刀锋朝后倾斜,以刀柄伸向头前,冒着敌人的锐势贴近其手下,用刀柄击其心口。就是这样的技法。但其术名与其动作是否相符,则尚不得而知。
首先来说本流的口传,关于此太刀是从一刀流中的“狮子反敌”(笔者此前分享的沟口派一刀流网页链接中有“狮子反掷”之说)中由是水先师思考演化出来,并给予其名。此技法,是在敌之刀将要袭来之际,凭借能忍之力与诚心应对,从而获取胜利。至于“狮子反敌”的详细说明虽有,但那属他门之技,因此属于臆测,便不再赘述,于此也无益。
又言“当敌之刀将至,我能忍之,以诚心应对”,虽然确实如此,但若以剑法角度来看,这并非是此太刀所特有之理法,故此技是否可称为“动也不动”,实难判断。
另据伊庭氏的口传秘书所述,称“剑忍诚”为:“能分辨敌之虚实,忍耐为第一要义。不离中正之姿,若能抵达诚之道,其胜则明白无误。故称之为‘剑忍诚’。”这也与我方的传承主旨大体相符,但所谓“忍耐最为重要”究竟是何种忍耐?要忍耐到何种程度?则未可知。又称“抵达诚之道”时,又何为“诚之道”?此亦难明。因此,单凭“剑忍诚”之名,便加以大致推测作解,实觉牵强。
因此,容我说出自己所思:“剑”字,在此正如字面之意,是指敌方之剑,即前述阳构中自上而下击来的敌剑。
“忍”字与“刃”音相同,“刃”读作“やいば”,意指刀锋,也就是我方刀刃之意。在前述的剑法中提到,当敌人逼近、我方从敌人下方将太刀负于背上时,我之刀刃是朝向天的,这正是“刃”之象。
“诚”字与“上”音相同,如前所述,当我刀刃朝天时,敌方自上击下的剑便正好击在我之刀刃之上,因此得此名。若合起来解释,就是说:敌之剑被我方接于刀刃之上。
总的来说,要想取胜,无论使用哪一式刀法,都必须将敌置于我刃之下,方能得胜。然而,唯独这一刀,是以敌之剑置于我刃之上而取胜之术,因此才将其命名为此。也就是说,它表达的是“剑在刃之上”的意义。但此术须进入敌之势中取胜,若不能把握应当进入的时机与进退的分寸,便难以成功。因此,此术须在生死未分之际,深思迟速之机,克服恐惧之意也包含在其中。《说文》中解释“忍”为“能”;也解释为“强”。因此,在这种情势中能够果断出击、不退避艰难之处,正是“能”“强”的意义。又据字书,“诚”解释为“纯”“真实”。即便抓住了这一刹那的机会,面对敌人自上猛击而来的气势,也不生退意,而是毫无犹豫地专注于术法,以纯粹真实的信念进入敌刃之下,奋勇突进而得胜。这一点与“忍”的意义亦相通。所以,包含了“上”的意象,又含“诚”的精神,先师将其命名为“刃上忍诚”,此乃其深意。
然而,仅从字面解释此名者,其理解与刀法并不吻合;反之,只讲求刀法之人,又不会去探究其名义。因此,不论是我方的传承,或彼方的传承,都未能将其美妙之处完整展现出来。据此理解“剑忍诚”之术,不仅能掌握其技法,也能了解两派的传承记录。实应深味体会此法之真义。
追加
篠崎曰。一日常敬子と此刀の事を論ず。其ゆゑは、此刀の法其理ありと雖ども、其事に及ぶに至ては尤も難しと為す。因爰に其形を攷るに、此刀の術実は然らん。まづ敵と相峙し、敵の発機に及んで、身を傴、首を低、膝を折事前条の如くにして、其太刀を背に負ず。鋒上りに敵面にあてて衝出す。然るときは敵の撃下拳に中り、我体恙無くして乃勝を得。これ其為事易ふして之に当る可し。伝る所の者は、其難を以て人に教て為し難し。因て此形を以て之を授く。予聞て言らく、其言是なるに似て善とす可らず。其ゆゑは、剣忍誠の術は、獅子反敵より出て、先師の述作する事は既に云り。是若くなれば、此認誠,のゆゑは、畢竟敵に対して難きと為るを以て謂り。今篠敬の論る所を以て之を為ば、何ぞ敵に当るの難き事あらん。是敵間の遠き、又我身を全き処に置。これに曷忍誠の名有ん。然るときは、この形は先師の定る所に非る也。若又強て之を言ば、敵の発機に及んで、我之に当とき、膝を折、身を傴、首を低、太刀を頭上に持、剣身を堅にして、鋒を少しく後になびかし、鋭身敵に当たる。然るときは我が堅なる太刀、敵の両手の拳辺に中りて、敵臨撃する事を得ず。是即獅子反敵より出たる形なり。然ども斯の如くなるときは、未刃上と謂べからず。故に忍誠はいづれも伝へ来るところの者、先師の的統なり。云に及ばざる事ながら、爰に獅子反敵の事を陳ん。夫この反敵の太刀は、敵と相迫、鍔ぜりになりたる時の事也。まづ此獅子反敵と謂しゆゑは、獅子子を産して後、其子の強弱を試て、其強なるを以て之を郁。其事は、父獅子獅を率て、千仞の巌壁に臨み、之を推て巌下に堕す。是時弱なる者は、堕に及んで、顚堕顧事能はず。強なる者は、父獅の推て巌を堕んと将とき、捷く身を翻て、還つて父獅を噬。父獅其強性なるを知つて、乃其子を育て堕失たる者を念はず。これ推堕のとき反之に敵するを以て也。因てこの刀法に、之を反撃と謂は、我或は敵、両刀相迫り、鍔もとにくひ合、両刀離脱する事を得ず。斯とき、敵忽圧撃せんとして、力を以て之を撞。我彼力に依て、反て之を脱。降刀的手を切。其勢子獅の還つて父獅を噬の状あり。因て以て之を名ぜしなり。然れば反敵の術は、其刀堅にして、手もと地に降を以て旨とす。予が前に言たるは、此形に拠つて云へる也。先師の忍誠の法を起せしは、反敵の降切する刀を改めて、柄を進めて敵中に撞。刃は乃ち天に向て敵手の裡を切。是則反敵の太刀の変ぜし所以なり。故に此形を以て証すれば、先師の意は即に見つべし。反敵の事は、予常稽先生に親しく聞く所なり。斯を以て此弁辞を為せり。疑事勿れ。
篠崎说:有一天,我与常稽子讨论此刀法的事情。原因在于,这刀法虽然有其道理,但一旦要实际施展起来,却极为困难。因此我们一起考察其形态,确实如所传那般。与敌人对峙,当敌人发动攻击之机到来时,依前文所述,弯身、低头、屈膝,但并不将刀背负于背后,而是将刀锋朝上对准敌人的面部冲出。这时正好击中敌人斩下时的拳头,我方身体无恙,因而获得胜利。如此改动后,便可较易施展此技。于是,有传承此技者,因其本法太难,便用这种形态传授给人。
我听后说道:这个说法仍不能说好。原因在于,“剑忍诚”这一术,是出自“狮子反敌”,这一点前文已经讲过。如果是这样,那么所谓“忍诚”,终究就是因为其在面对敌人时非常困难才被命名为此。如今若依照篠敬所说的方式来施展,那有何来面对敌人之难呢?这不过是拉开与敌人的距离,把我方身体置于安全之地罢了,这样怎能配称“忍诚”之名?
如此看来,此种形态并非先师所制定之法。若一定要说出我认为可能较为接近的方式:当敌人发动攻击之机来临,我方在应对时,屈膝、弯腰、低头,将太刀举于头上,使刀身坚实,将刀锋略微向后垂下,以锐利之势向敌冲出。如此时,我坚实的太刀将会击中敌人的双手拳部,使敌人无法施展斩击。此即是出自“狮子反敌”的动作。然而,这种情况下,尚不能称作“刃上”。因此,“忍诚”一术,凡是传承至今者,皆为先师的正统,不容质疑。
虽然按理说不应多言,然于此我仍要陈述一下“狮子反敌”的事。夫所谓“狮子反敌”的太刀,是在与敌人极度接近、已经进入“锷迫”状态之时施展的术。其名之由来,是因狮子在生下幼崽之后,会测试其强弱。方法是带幼狮来到千仞绝壁之上,将其推下悬崖。弱小的幼狮在坠落之际,无法自救而亡;而强壮者则在被推落的一瞬间迅速翻身,反咬父狮。父狮由此知道其子强壮,于是才予以养育,对坠亡者则不加理会。这“反咬父狮”的行为,即是“反敌”之名的由来。故此刀法谓之“反击”。当我或敌刀贴近,锷口交缠,难以分离之时,敌人忽然试图施力压制、猛力撞击,而我则借其之力反脱其压,斩击其手。其形态正如幼狮回咬父狮,因而得名“反敌”。
由此可知,“反敌”之术,关键在于刀要坚实,并以下压的动作为核心。我前述之说,正是依据此形而述。而先师之所以创出“忍诚”之法,便是将“反敌”中自上而下斩击的动作加以改进,改为将刀柄推进敌人胸前,刀刃朝天,从敌人手部内部切入。此即“反敌之太刀”变化而来。因此,依据此形来印证先师的意图,就能明了其真意。我所述“反敌”之事,乃亲自听自常稽先生。基于此,才作此解释。切勿怀疑。
此技的应用环境其实笔者认为更贴近于一刀流中网页链接的四之切。
另外对于他人的传承或解释就保持怀疑,自己的推测则要求别人切勿质疑。这种严于律人宽于律己的高尚品质实在令笔者钦佩。嘻嘻。
再記
前に云へる剣忍誠の太刀は、其実は剣刃上なる由は審かに弁んぜり。然れどもただ臆度にして正説なし。近頃聞く 此事は既に禪家に其語あり。宋の圜悟禅師の碧巖集の垂示に曰く。是非交結の処、聖も亦知事能はず。逆順縦横の時、仏も亦弁る事能はず。絶世超倫之士と為て逸群大士之能を顕はす。氷凌上に向つて行き、剣刃上に走ると。これ正しく剣刃上の文字の出づる所なり。而其発当の駿、此語を観て知るベし。然かれば刀法に剣刃上の名ある。信に此語と合へり。又云く。法幢を建て宗旨を立つ、他の本分の宗師に還す。竜蛇を定め緇素を別つは、須らく是れ作家の知識なるべし。剣刃上に殺活を論じ、棒頭上に機宜を別つ。これは剣術生の俗眼には解し難たかるべき与。矢張前旨と同じ事にて、其火急なるに分別の定る事なり。今の剣忍誠のつかひ方にて思ひ知るべし。是も得と勝術の機を論じみざれば分り難きなり。然れば刃上を忍誠と書きたるより、種種の説出来たるにて、先師の頃は、此真伝にて門人に教し事なるベし。又禅の古語に、剣刃上に馬を走らしめ、火焰裡に身を蔵すとも云へり。是も同意なり。考へ合はすべし。又是よりも的証あり。武芸小伝に云く。三谷正直が曰く。上泉伊勢守諸州修行の時、郷人民家を囲て騒動の所へ行かがれり。其故を問へば、咎人あり童を捕へて質とす。郷人等囲むと雖ども如何ともする事能はず。童の父母かなしむと言ふ。上泉聞て曰く。我れ其童を取るべし。路を過る僧を招ひて曰く。咎人童を捕へて質とす。今我謀あり是を取るべし。我髪をそりて法衣を借せ。僧諾して髪を薙て、法衣をぬぎ上泉に与ふ。上泉則着し。拳飯を懐に入れて其家に入。咎人是を見て曰く。必我に近づく可からず。上泉が曰く。其質として捕ゆる童飢に及ぶべし。故に拳飯を持来る。君暫く宥て与られば僧が多幸也。夫れ僧は慈悲を以て行ひとす。見聞するに忍びずとて、懷中より拳飯を出して投あたへ、又拳飯を出して曰く。君も亦飢ゑたまふべし。之を食くして労を休めたまふべし。君必我を疑ひたまふ事勿れとて、又投与ふ。咎人手を們て取んとするを、飛かかつて其手を執つて引倒し、其童を奪つて出づる。郷人等終に咎人を殺す。上泉法衣を脱で僧に返す。僧甚賞美して曰ふ。君は誠に豪傑也。我僧たれども其勇剛を感ず。実に剣刃上の一句を悟る人なりとて、化羅を上泉に授て去る。上泉常に此化羅を秘蔵し身を離さざりしが、神後は第一の弟子ゆゑに之を授く。後、神後、兵斎が豪気にして精妙を得るを賞して之を与ふとあり。三谷正直は、芸州の侍従浅野綱長に仕ふ。後致仕して改て宮川印斎と云ふ。剣術の達人なり。以上の事を視て知るべし。僧の上泉を賞して、実に剣刃上の一句を悟ると言ひし事に眼を着くベし。其不意の機活、神速発当の駿を以て勝を得し事観べし。又此上泉と云し人は、剣術の名人、神陰流の開祖にして、神後と云ひしは、神後伊豆守とて其門徒なり。上泉の剣術を、柳生但馬守悉く皆伝す。上泉其技の達せるを賞して、実に新陰流と謂ふべしと曰へり。因柳生より新陰と称す。然るに此の人も亦名人なれば、自ら其流を謂つて、人皆柳生流と称す。吾流の祖是水軒は、始め柳生の門に入て、其術を学び得たる由なれば、この剣刃上の名は、其本上泉より出て、柳生よりして吾が流に伝はりし事、自から知べきに似たり。然るを先師の頃、文字を忍誠と書せしを以て、未流に至って杜撰の言起れり。又斯剣忍誠の太刀、今は其法一条にして之を云ふれども、其実は前に云へる、機活神妙、勝術の発当、定る所無きを以て為べし。是れ上泉を僧の賞褒せし事と、始めに記せし禅話の意を推て察すべし。上泉の咎人の捕たる童を獲し事、剣術には非る事自から明らかなり。これ剣刃上の勝術たる所以なり。能く思を致すべし。抑々亦口授に拠て悟り得ベし。
此前所讲的“剑忍诚之太刀”,其实正是所谓的“剑刃上”之意,这是可以明确辨明的。然而过去只是出于推测,没有确切说法。最近听闻,这个说法在禅宗中早已有其出处。宋代圆悟禅师的《碧岩集》的垂示中记载道:“是非交结之处,圣人也无法判断;逆顺纵横之时,佛祖也无法辨明。唯有绝世超伦之士,才能显现超群的大士之能。正如行走于冰凌之上,奔跑于剑刃之上。”
这里便是“剑刃上”这一说法的来源。其发机之迅疾,从这句话便可知。因此,剑术中有“剑刃上”之名,正与此意相符。
又说:“树立法幢、确立宗旨,最终是需要宗师制定;辨定龙蛇、区分僧俗,必须是有成就的宗匠才能胜任。在剑刃之上论生死,分辨觉悟的时机。”
这些说法,以普通剑术之人的俗眼来看,是难以理解的。然此与前述主张相同,皆为在极端紧迫之际所能决定胜负之事。如今剑忍诚的用法,正可由此体悟。若不能从胜术的发机中加以深究,便难以理解。由此看来,自从“刃上”被称作“忍诚”之后,种种说法便相继而出。然而在先师的时代,此为真正的传授之法,应是以此教授门人。
又在禅宗古语中亦有:“使马行于剑刃之上,使身体藏于火焰之中。”此意亦与前述相通,可予以参考印证。
此外,还有更确切的证据《武艺小传》中记载三谷正直所说:上泉伊势守在诸国修行时,曾遇到一件事。当时某地的百姓围住一所民宅,一片骚乱。上泉前去询问原因。原来有一罪人抓了一个孩子做人质。虽然乡民围住,但无可奈何。孩子的父母极为悲痛。上泉听后说:“我来救那个孩子。”于是招来一位正好路过的僧人,说道:“罪人以孩童为人质。我有一计可将其救出。请将法衣借我,并为我剃发。”僧人答应了,为上泉剃发,并将法衣脱下给他。上泉穿上法衣,将几个饭团藏在怀中,进入该屋。罪人见状喝道:“你不要靠近!”上泉说道:“那被你抓来做人质的孩子恐怕已经饿了,所以我带来了饭团。请稍微宽容一些,把这个给孩子,僧人便是大幸。僧人以慈悲为行,不忍见此等情状。”说完,从怀中拿出一个饭团投过去,又拿出一个说:“你也饿了吧,吃这个,休息一下。请不要怀疑我。”又将饭团投给他。就在罪人伸手去接时,上泉猛然扑上去抓住其手,将其掀翻在地,救出孩子并带出屋外。(此桥段亦被后世大量的艺术作品所借鉴)随后,乡人将罪人击毙。上泉脱下法衣还给僧人。僧人深表赞赏,说道:“阁下真乃豪杰之士!我虽为僧,却也深感您之勇与刚。实乃悟得‘剑刃上’一句之人。”于是将自己的化罗(掛络,挂在胸前的方形的简易袈裟)赠予上泉而去。上泉将此化罗视为珍宝,常年随身携带。后来,他将其传授给最杰出的弟子神后。其后,神后因和兵斋同样具备豪气与精妙的技艺,便又将其赠予兵斋。三谷正直原是出仕于艺州侍从浅野纲长,后来辞官,改名宫川印斋,为一代剑术大家。
由此诸事可以得知,那僧人之所以称赞上泉为悟得“剑刃上”一句之人,其关键在于那出其不意的发机、神速果断的行动。这也就是所谓“剑刃上”的胜术。而这位上泉正是剑术名人,神阴流的开祖;神后则是他的门人神后伊豆守。上泉将其剑术完全传授于柳生但马守,上泉因称赞其技艺之高,称之为“新阴流”。自此,柳生家开始称为“新阴流”。然而柳生自身也是名人,因此将其流派称为“柳生流”,广为人知。
吾流之祖是水轩,起初便拜于柳生门下,学习其剑术。因此,“剑刃上”之名,源自上泉,自柳生传至吾流,此事已可知也。然至先师之时,则改以“忍诚”之字书写,因此流传至今后,便出现了种种不准确的说法。此外,虽今日“剑忍诚之太刀”被作为一法单独记述,其实质正是前所言那样。出其不意、神妙精妙,胜术无定。此可由上泉拯救孩童一事及禅宗故事意境推测察知。上泉能从罪人手中夺回孩童,此虽非剑术之事,却正是“剑刃上”的胜术体现。对此当多加思索。终究仍需通过口传方能得其要义。
此刀の事、口伝に云く。此法は先師是水軒、本心刀流に有る所の杖の技より写て、此法を考作せしと也。其剣法け、由所いかにも杖に拠刀を以てする者にして、勝術すぐれて見えたり。伊庭の口伝秘書に云く。杖威刀、当流の杖は、きたいの鉄を以てす。或は竹の内に仕込て用ゆ。寸法は、我立ちて乱切りに致す可き也。剣を用ひずして敵をくつする者也。故に杖威刀と云。斯の如きときは、杖の制作を云ふ者にして、吾方の伝る所も之無んば有るべからず。且此制もとより之と違ふ事無し。然ども杖は、其本法有つて制無き事本意とすべし。豈杖を頼で刀を置んや。因て吾方の伝る所を見よ。必鉄杖を待ず。竹若は木、直その身形を以て刀と勝事を得べし。故に杖の術は、心と形とを以て則と為べし。且又其証を云はんに、常智子の是水·是心両先生より伝所の兵法口伝に云く。威者は節に臨んで変ぜず。其備を自から正しく、事理に転ぜられざる全体を威と云ふ。又曰く。威は静にして千変を具し、勢動じて万化に応ず。故に威を以て敵に合せ、勢を以て敵に勝つ者也。是吾が流の威を言者にして、即杖威の威は之を以て知べし。杖はもと鋒さき無く刃は無き者にして、ただ撃搶人に当べし。然れども撃搶刀と対すれば、是恐るるに足ず。孟子に、梃与刃を以て、すると云ひし者も、杖は人に創つけずして殺を以て云し也。然れば杖は、全く其術を以て刀に勝事を得る者にして、彼節に臨で変ぜず。其備自ら正しと云、又静にして千変を具し、勢動じて万化に応ずと云ひしも、其心形の勝ある事知るべし。伊庭の云る所の如きは、全く杖の注と為也。然るときは豈其名に刀を以て称せんや。畢竟目録の列する所の者は、皆刀の則なり。是を以てこれを杖威の目を以てせり。これ杖に拠て刀法を考作せしを以て也。是に因て知る。吾方の伝る所には刀の法ある事を。全く杖威の実を的統せし也。彼方に、杖法に刀を以て称せし事、不文の至れる咲ふ可し。其伎術の形は、学んで知るが為に、今茲に記せず。杖威の弁は、則明なりと謂ん歟。
关于此太刀,口传中说道:此法是先师是水轩从本心刀流中的杖术技法中摹写出来,进而构思创作而成的。其剑法的由来,确实是以杖为基础、以刀施展之技法,胜术尤为卓越。
伊庭的《口传秘书》中记载:“杖威刀”,当流的杖,是以精炼的铁制成,或是将其插入竹中使用。其标准是以我立后能进行乱切为准。是不使用剑而击败敌人的技法,因此称之为“杖威刀”。如上述所言,这类情况是从杖的制作角度出发而谈,因而我方所传承的内容,如果对此没有相关内容那是不合理的。而实际上,我方的传承也并无与此不同之处。然则,杖本身应有其技法,但无固定的制式,才是其本意。岂能依赖杖而舍弃刀呢?因此请看我方所传之法。并不依赖铁杖,竹子也好,木头也罢,直接以其本身形态视作刀来获取胜利即可。因此,杖术应当以心与形为准则。
再者,为了说明这一点,可引用常智子从是水、是心两位先生所承传的兵法口传中所说:“所谓‘威’,是在紧要关头中保持不变,能够自我端正其防备,不为外物事理所动摇的整体状态,称之为‘威’。”又曰:“‘威’是静中具备千变之势;‘势’在动中能应万化。因此,以‘威’来与敌相对,以‘势’来战胜敌人。”这正是我流所称之“威”的含义,由此亦可理解“杖威”之“威”即为此意。
杖本身无锋无刃,仅能用于击打或推开敌人。然则,即使用此杖与刀相对,也无需恐惧。孟子中亦有“以梃与刃”之语,说的也是用杖来制敌而非直接杀伤。由此可知,杖完全是凭借其技法而能够胜于刀者。所谓“在紧要时刻不变”、“防备自正”,又曰“静中具千变,动中应万化”,皆可知杖术在心与形上的优越。伊庭所说之事,完全是以杖为主的说明。既如此,又怎么能用“刀”来称呼其名呢?归根结底,目录中所列诸项,皆为刀法之范式。故此使用“杖威”之名,是因以杖为基础构思刀法之故。由此可以得知,我方所传的内容中确实有刀法,而完全体现了杖威之实质。对方在杖法中用刀来称谓,其不合规范,可笑至极。至于其具体的技艺形态,为学习理解之用,此处暂不记录。至于“杖威”一事的辨析,应该算是已经阐明清楚了吧。
此太刀胎内の名ありて師授も伝りたれど、今の伝来にては勝術に不審ありて、其帰する所信用し難きに至る。まづ其故を云はんに、此太刀、彼下段に構へ清眼の太刀なるを、我上段に構へ、向ふ身にして陽に太刀を靡し、敵にむかひ緩に進む。此時敵下段の太刀、其構へを動かすを、我上段より陽に靡かしたる太刀を、彼が双手の間に打込なり。
此太刀名为“胎内”为师傅所传,但在现今的传承中,对其胜术存在疑问,以致难以完全信赖。首先说明其中的原因:此太刀之技,是对方采取下段“清眼之太刀”时,我方则采取上段构,正身面向对方,以阳太刀缓缓向敌方逼近。此时,对手处于下段构的太刀若有动作,我方便从上段构将阳侧摆动着的太刀,直接斩入对方的双手之间。
彼はまた我打込たるとき、其太刀を受けながら静に引て退くを、我はまた彼が引に随つて、静に太刀を上段に返す。斯の時彼復始の如く動くを、我亦打つ事始の如し。此の如くいく遍も為事を伝へて、其気を練るの事と云ふ。今伊庭氏の口伝秘書には、曰く。胎内刀、流儀にては未発の位と云。又母之胎内に居て、節来りて生るるが如く、勝気もなく、むねんむそうにして、其業の目ぐむ時ゆるさず打つ業也。とどこうる事なく、臍下に心を納め、節来て打込を胎内之位と云。或は気のねり業の満る事を得んが為にす。故に胎内刀と云とありて、是にても終り其即功は成し難し。然れども伊庭氏の其伎を為すを見るに、敵下段の太刀其構を動かすに至つて、我れ上段より彼が双手の間に打込むとき、吾流の打は、機発を抑るが如く打てども、伊庭の伝る所は、其機発に乗じて衝込が如く打つなり。然れば是ぞ其真の遺たる者なるべし。因予が思ふ所を記せんに、まづ胎内と云ふ事、一言に胎内と云はば、其れぞ名なりと思へども、其太刀の使ひように胎内と云ふ義なければ、其太刀の用協はず。然れども伊庭氏の所云の如きは、其用を伸るに似たれども。之も理窟に流れて倐に手際は見へず。恐らくは先師の真ならじ。吾派の伝来も則之と伯仲す。因考るに、吾派の今存ずる所も、伊家の今伝へる所も、共に此刀の表なり。其必勝の術に至ては、先づ胎と云ふ事を知りて思ふベし。胎とは字書に、凡孕み而して未だ生ざる皆胎と曰ふとあり。本草綱目などにも、人胞を胎衣と云ふよし見えたれば、皆物の内に居る事を謂へば、胎子の形は、すくまりて居るべければ、まづ是ぞ胎内と云ふ形の起る所なり。
对手在我方打入之时,一边承受我方的太刀,一边平静地向后退去。而我方则随其后退之势,亦平静地将太刀返还至上段构。此时,对方再次如最初般动作,我也同样再次如初般出刀。如此反复进行数次,谓之“传习其术以锤炼气势”。现今在伊庭氏的《口传秘书》中记载曰:胎内之刀,在本流中称为“未发之位”。又如同尚在母胎之中,至时间到来才出生那般,毫无胜负之气、无念无想,在此技中的运用便是在对方的动作即将显现之际毫不迟疑地斩出。不滞不碍,将心沉于脐下,等到时机来临即打入,此谓之“胎内之位”。或亦为锤炼气势、成就技艺圆满之故。故称其为‘胎内刀’。但即便如此,也难以仅凭此而即刻成就其“实功”。然而观伊庭氏亲自施展此技之状,可知:当敌方下段之太刀有所动作之际,我方自上段将太刀斩入对方双手之间。吾流的打法虽为“抑制敌之发动”之形,但伊庭所传者,则是“顺其发动之机乘其势而入”之打法。由此看来,此或许才是真正流传下来的精义。
因此,记下我个人的思考如下:首先,就“胎内”一词而言,若单以“胎内”之名视之,自会以为其本身即为名目之意。但若太刀的使用方式与“胎内”之义不相符,则该太刀之用途也就难以契合此名。虽然伊庭氏所言之用法,似有伸展此意之处,但也偏于理教而未能直接展现手下的利落实效,恐怕亦非先师之真意。
吾派的现传内容,与伊庭家的现传内容,可谓不分伯仲。故而思考之,吾派现存之传授,亦如伊家之传承,皆为此刀之“表”。至于其必胜之术,首要应从“胎”之一义着手理解。“胎”字于字书中解释为:“凡是怀孕而尚未出生者,皆谓之‘胎’。”如《本草纲目》等书中所说,“人胞”称为“胎衣”,亦可知皆是指居于物之内部者。由此可知,“胎子”之形,必是蜷曲收缩于内的状态,正是“胎内”一词所表达的形象之起点。
さて此形何にと云へば、吾派に諸口伝と云て、免状以後印可前に教ゆる秘事どもあり。此うちに、陽の構への一種あり。通例は、陽は太刀を頭上になびかして撃出すなるを、此構へは両手を面前にすぼめて、太刀を頭通りに竪に一文字に流し、柄を敵の正面に当て、真向の偏身にてかかる。畢竟此構へは敵の構へに応ずる為めなり。さて右の構ヘ、敵のいかに仕たるに応ると云へば、此の敵の仕掛けと云ふは、下段の仕掛けにして、至て剛気にして鋭身にかかる者は、其段ますますひくくして、我が上段の太刀を物ともせずして、下段より見上げさまに、ぢりぢりと仕掛けて、我虚を見れば、即便につき切に勝んと為る仕掛けなり。此時我が構ゆるを、前の胎内の構へとする也。夫れ奈んして斯の如くすると云へば、敵下段にして前の如く鋭身剛気なる者は、其太刀至つて尖し。因て銛を以て応ずるときは、相剛必ず一方に害あるの理あれば、我れは至つて柔心にして、前に云るが如く両手をすぼめ、太刀を頭上に竪てて、還て立身にして、足をもつまだつる意にして対する也。敵乃我が構を望むに、尋常の上段の如く臂張らざれば、撃つ可き処少くして、纔かに両手の左右と、其門より見えたる鼻のみなり。因て敵其処を窺つて切りを発するゆゑ、我が胎内の構へ其機発を閃見して、敵手の動発に乗て、上段の構へよりさか堕に敵の両手の動んと欲するの処に切込むなり。此太刀則敵の両手の合ひたる間より、さか堕に其腹部につき込なり。是則吾胎内の構より出でて、敵の胎内に突込なり。此とき我、敵の機発に応じて直に撃を発するに非んば勝たず。茲を以て思ふベし。伊庭氏の口伝書に云ひしも、矢張り此意はあり。然れども此の真伝は廃たる者か。故に今其伝の得たるを謂んには、此刀の形は吾派の諸口伝に存して、其勝術は伊庭の伎方に存せり。今皆両派の教慣する所は、俱に其表にして、彼の機発を知りて撃を出だすの神速を学ばん為なり。其勝術に至つては、かの表にしては得難し。予因て今其術の其名に存含するの旨を明せり。尚後来の熟思を積ん者乎。
那么,这种形究竟为何物呢?我派有一类称作“诸口传”的内容,乃是在授予免状之后、印可之前所教授的诸多秘事。在其中,有一种阳之构。一般而言,所谓“阳”是将太刀在头上挥斩而出;而这种构却是将双手收拢至面前,将太刀沿头部竖直如一字般垂直下落,刀柄正对敌人正面,以正面偏身的姿态应敌。归根结底,此构是为了应对敌人的某种特定构而设。
那么上述姿态为何可以作为应敌之术呢?敌放的进攻是由下段的而来,其人极具刚气,身势锐利,持太刀极低,全然无惧我方上段之刀,自下段仰望斜视步步逼近,一旦看出我之破绽,立刻便刺、便斩,以期取胜。若以矛盾之锋正面对抗,必两败俱伤;因此我方应怀柔和之心,如前述那般双手收拢,将太刀直竖于头上,保持立身姿态,以脚下如绷弓之意相对。当敌发现我的姿态,不似寻常上段那般张臂而立,能斩之处极少,仅见双手两侧及其间一缝显现的鼻子。敌方便窥其空隙而发动攻击,而我方以“胎内之构”一瞬识得敌之发动之机,于敌发动之际,自上段斩落,切入敌双手。此太刀便是从敌双手之间直接突入其腹部之术。也是自我之“胎内之构”发出,刺入敌之“胎内”。此时若不能准确捕捉敌之发动之机并立即出击,则无法取胜。此点务必铭记。
伊庭氏的《口传书》中所述,也确实包含此意。然而,此真正的传承似乎已然失传。因此今日若言此术之真传所归,便是:其太刀之“形”传于我派的“诸口传”之中的“胜术”则存在于伊庭的技法之中。
如今两派所教之内容,皆为“表”,其目的在于学习如何察知敌人发动之机并以迅雷不及掩耳之速出击。至于“胜术”之核心,光凭此“表”尚难获得。因此我今欲明示此术之“名”所包含之旨意,以供后人反复思索探求。
卷一终