又名《唯心一刀流剣法伝書》
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本文作者古藤田弥兵卫俊定是唯心流初代俊直的孙子,任大垣藩戸田家的剑枪术老师,领二百石。本文是古藤田派对一刀斎剑法的观念与教义。
一 夫れ当流剣術の要は事也。事を行ふは、理也。故に先づ事の修行を本として、強弱·軽重·進退の所作を、能く我が心躰に是を得て、而る後其事敵に因て転化する所の理を能く明らめ知るベし。たとへ事に功ありと云ども、理を明に知らずんば勝利を得がたし。又理を明に知たりと云ども、事に習熟の功なきもの、何を以てか勝つ事を得んや。事と理とは、車の両輪·鳥の両翅のごとし。事は外にして、是形也。理は内にして、是心也。事理習熟の功を得るものは、是を心に得、是を手に応ずる也。其至に及んでは、事理一物にして内外の差別なし。事は即ち理也、理は即ち事也。事の外に理もなく、理を離れて事もなし。然れば術を学ぶ者、事一片に止りて理の邪正を知らず、或は著して事の得失を知らざること、是れ偏也。事理偏著する則は、敵に因て転化する事能はざる者也と。故に当伝の剣術は、先師一刀斎より以来、事理不偏を主要として、剣心不異に至る所の伝授を秘所とす。予当流の末葉として此術を学ぶと云へども、愚才不功にして其妙所を知らず。雖然弟子の執心黙止がたきに因て、伝来事理の大方を改て一紙に是を記す。実に管を以て天を窺ふが如く、後見の嘲を求るに似たり。
本流剑术之要,在于“事”。而能行“事”者,乃“理”也。因此,须以“事”之修行为本,使强弱、轻重、进退等技艺融入自身,使身心皆能体悟。待掌握其技后,方能因敌变化,通晓剑理。即便技艺精湛,若不明剑理,亦难得胜;反之,即使通晓剑理,若未曾实战锤炼,又如何能够取胜?“事”与“理”,如同车之双轮、鸟之双翼,相辅相成,缺一不可。“事”为外,即形;“理”为内,即心。唯有事理兼修,方能心手相应。至极,事理合一,内外无别。事即是理,理即是事。离事无理,离理无事。因此,修习剑术者,若仅执着于技法,而不明剑理之正邪,或固守道理而不知技艺得失,皆为偏颇。事理若失衡,便无法因敌而变,战场之上,终难克敌制胜。
因此,自一刀斋以来,本流剑术皆以事理不偏、剑心不异为传承之奥义。余虽为本流后学,然才疏学浅,未能彻悟其妙。然因弟子苦心求道,特此整理剑术之事理纲要,以成一篇。实乃如管窥天,难免贻笑大方,然唯望后世能有所悟。
一 構は、天·中·地·陰·陽の五形也。各其一に五の変有り。古伝に、構を陰陽の二つに定而、躰中の剣、剣中の躰と云ふは是也。陰の構に陽の変あり、陽の構に陰の変あり。故に其構に得失無し。何れにても手に得、心に応ずる構を以て是を用ふべし。伝に専ら用ふと云ふ構なし。其用捨は己にあり。構を以て利せんと欲する者は、外実にして内必ず虚す。是を以、構に心取らるゝと云なり。内外虚実の差別なきを、当流に無形の構と云ふ。誤て心を構にとらるゝ者は、合ふ時は即勝つと云へども、不合時は忽ち負く。必勝は構にあらず、事理の正しきに在り。雖然、構は千変万化の本、強弱軽重の体なり。故に無形の構を能く鍛鍊すべし。陰の構にあらず、陽の構にあらず、其形ありと云ども、心其構に止らざるを無形の構と云也。構心に不異之位と云ふは、無形之全体也。千変万化の事は、
物に応じて形を現ず。是れ其全体無形なるが故也。
构,乃天、中、地、阴、阳五形,其各有变化。古传将构定为阴阳二种,称之为体中之剑、剑中之体。阴构中有阳变,阳构中有阴变。因此,构本身并无得失。无论何种构,只要得心应手,便是适用之构。传统上并无专一使用之构。其取舍在于己身。欲以构求利者,外表坚实而内必空虚。因此,称之为心被构所取。内外虚实无差别者,在本流派中称为无形之构。误将心拘泥于构之人,遇合之时虽能即刻取胜,不合之时则迅速败北。必胜之道不在构,而在于事理之正。尽管如此,构仍是千变万化之本,强、弱、轻、重之体。因此,应勤加锻炼无形之构。非阴构,亦非阳构,虽有形却心不止于构,称之为无形之构。构心无异之位,乃无形之全体。千变万化之事,随物应形显现。此乃其全体无形也。
一 術は、負る所と勝ざる所を知るべし。負る所と云ふは、先づ勝つ所なり。勝ざる所と云ふは、敵の能く守る所也。其負る所は我に有、勝たざる所敵に有。妄りに勝たんと欲する者は、其負る所を知らず、負ける所を勝たんと欲する者は、敵の勝つ所を知らざるが故也。我勝たざれば不負、我負れざれば不勝、故に十分の勝に十分の負あり、十分の負に十分の勝あり。勝て負る処を知り、負て勝つ所を知るは、術の達者なり。我が事理を正し、彼が事理を察し、敵に因て転化すべし。孫子曰、知彼知已百戦不殆、不知彼而知己者一勝一負、不知彼不知己者每戦必敗。
术之要,在于知晓何处可败、何处不可胜。所谓可败之处,即是取胜之关键所在;而不可胜之处,则是敌人防守严密之地。可败之处在我方,不可胜之处在敌方。盲目追求胜利者,往往不知己之可败之处;欲在败中求胜者,则不明敌之取胜之道。我不求胜则不败,我不败则敌不胜,因此,十分之胜中藏有十分之败,十分之败中亦蕴含十分之胜。能在胜利中看到败因,在失败中预见胜机,方为术之达者。应端正己方之事理,洞察敌方之事理,随敌变化而灵活应对。正如孙子所言:“知彼知己,百战不殆;不知彼而知己,一胜一负;不知彼不知己,每战必败。”
一 威は、節に臨んで変ぜず、其備正明にして、事理に転ぜられざる全体を威と云。動ぜずして敵を制するは、威也。是を不転の位と云。すでに動じて敵を制するは勢なり。是を転化の位と云。威は静にして千変を具し、勢は動じて万化に応ず。故に威を以て敵に合し、勢を以て敵に勝者也。威と勢とは二にして一なり。一にして二つなり。威に勢あり。勢に威あり。不転は無為の全体、其威十方に通貫して、恐るゝに敵もなく、疑ふに我もなし。不求とも威は自ら我に備り、勢は自ら其威に有り。
威,乃临危不乱,应对正确,不为事理所动摇之整体,称之为威。不动而制敌,是为威。此乃不转之位。已动而制敌,是为势。此乃转化之位。威静而具千变,势动而应万化。故以威合敌,以势胜敌。威与势,二者合一,一而二也。威中有势,势中有威。不转乃无为整体,其威贯通十方,敌无可惧,我无可疑。不求而威自备于我,势自存于其威。
一 移とは、月の水に移るがごとし。是を捧心の位と云。着くの事也。写とは、水の月を写すが如し。是を残心の位と云。離るの事也。理を以て是を示す時は、水月の伝授と云事にて、是を伝ふる時は、移写と云也。眼を以て見る所を目付と云、理を以て守る所を移と云、事を以て攻るを写と云なり。水月に遠近の差別なし。若し遠近を攻んと欲する者は、却而移を失す。是を移に心を取らるゝと云ふ也。心は水月之不変に至り、事は敵に因て捧残の宜しきを用ふる時は、不勝と云事なし。月無心にして水に移り、水無心にして月を写す。内に邪念をなさずば、事能く外に正し。〇語に曰、一月一切之現水、一切之水摂一月。
移,如同月亮映照于水中。此称为捧心之位(指与敌人对抗中既不过度也无不及)。即附着之事。写,则如水映月影。此称为残心之位。即分离之事。示此理时,称为水月之传授,传授之时,则称为移、写。以眼所见称为目付,以理守护称为移,以事进攻称为写。水月之间并无远近距离之别。若欲攻远近者,反而会失去移。此称为心被移所取。心至水月不变之境,事因敌而适宜运用捧残(即捧心与残心)之时,则无不可胜之理。月无心而映于水,水无心而映月影。内心无邪念,则外事自然端正。有句话说:一个月亮映现于所有的水中,所有的水皆摄同一个月之影。(永嘉玄覚禅師即六祖慧能的弟子无相禅师的《证道歌》“「一性圆通一切性。一法遍含一切法。一月普现一切水。一切水月一月摄。)
一 理は事よりも先に立、躰は剣よりも先んずる、是れ術の病気也。他に向て其事理を求むるが故也。臨機応変の事は、思量を以て転化するには非ず。自然の理を以て、不思とも変じ、不量とも応ずる者也。故に我に応ずる彼一理を敬して、思慮分別を不発、一心不乱に勝利を不疑、能く本分の正位に認得すべし。此法を学ぶ者、一心の修行如此なり。高上に至ては、一心不乱と云沙汰もなく、一理敬する差別もなく、内外打成一片にして、善もなく悪もなし。千刀萬剣を唯一つ心に具足し、十方に通貫して転変自在なり。是一心の修行を以て伝授を離れ、別伝の位に至る所也。事にて理を先立てざる習と云は、水月を守りて能く邪気を不生、千変は其一より転ず。一は無形の全体なり。譬ば水の如し。水に常の形なし、故に能く方円の器に随ふ。而して躰を先立ざる習は、剣前体後の伝授也。此術は、其刃を以て利を成すの体也。故に剣あれば事あり、事あれば理あり、心は事の本也。体は剣の元也。其本裏に有て末表に有るを実と云ふは、是順也。末裏に有て本表にあるを虚と云。是逆也。実は必勝の位、虚は位不定の勝也。利、事より先んずる時、事何を以てか変に応ぜん。体、剣よりも先んずる時、剣何としてか人を害せん。故に能く其本を正して、而して其末を治むべきものなり。剣体本末を正に至る事は、事理修行の功にあり。
理若先于事而立,体若先于剑而行,此乃术之病也。是因其向外界求事理之故。临机应变之事,并非通过思考与谋算来进行变化,而是以自然之理,使其在不思考的情况下自行变化,在不衡量的情况下自然应对。因此,敬重此一理,不让思虑与判断浮现,专心致志、毫不动摇地相信胜利,才能正确地认知本分的正位。学习此法之人,其修行之道应如此。达到更高境界时,便不会再有“专心致志”这样的概念,也不会再有“敬重一理”的分别,而是内外合一,没有善恶之分。千刀万剑皆存于一心之中,通达十方,变化自如。这是以一心之修行达到超越传授的境地,到达别传之位。所谓不让“理”先于“事”的习惯,就如同守住水中之月,能够不生邪气。千变万化皆由“一”而生,“一”乃是无形的整体。譬如水,水无固定形状,因此能随方圆之器而变。而不让“体”先于“剑”的习惯,则是“剑在前、身在后”的传授方式。此乃是以剑刃之利成就胜利的体用。因此,剑在则事在,事在则理在,心是事之本,体是剑之源。本在里而末在表者,称为实,此为顺。末在里而本在表者,称为虚,此为逆。实乃必胜之位,虚乃位不定之胜。理若先于事,事何以应变?体若先于剑,剑何以伤人?故应正其本而治其末。剑体本末归于正,乃事理修行之功也。
一 事の外にあらはるゝ者は、外に応じて其内を利し、事を内にもつ者は、内に随て其外を勝べし。内外の縁に因て、其好む所に応じ、其悪む所に随ふ。其虚実を能く見て、本を攻めて末を勝、或は末を攻めて本を勝ち或は本末ともに攻て本末ともに勝つ。故に事を以て是を攻る時は、利是を守り、利を以て是を攻る時は、事是を守る。内外専ら攻る時は、過表に有。内外全く守る時は、過裏にあり。攻る時は是れ守る所あるが故也。守るも亦攻る利有るが故也。故に攻るも攻るにあらず、攻ざれば勝利を得ず。守るも守るにあらず、守らざれば勝利なし。是を残不残の伝授と云。皆事之雖為行、本を能く正さずんば、末何ぞよろしからん。本末ともに能く正しき者は、千変自由にして万化心に不求とも、節に当て自ら変化宜し。
显事于外者,因外而变其内;持事于内者,随内而胜其外。依内外之缘,应其所好,随其所恶。善察其虚实,攻本而胜末,或攻末而胜本,或本末俱攻而本末俱胜。故以事攻时,理守之;以理攻时,事守之。内外皆攻时,则败于表;内外皆守时,则败于内。攻时是因有守,守时亦因有攻之理。故攻非攻,不攻则不得胜;守非守,不守则无所胜。此称为残不残之传授。虽皆以事为修行,若不能正本,末何能善?本末皆正者,千变自由,万化不求于心,遇节自能变化适宜。
一 事に利を持を先を守ると云。利に事を持を後を守ると云。先に止まる時は後に利なく、後に止る時は先に利なし。事理先後に不止を術の要害とす。故に先後は敵にあり、我是を守るにあらず。先後一事の伝授と云者、全く先に不有、後にあらず。先なる時は後も是に兼ぬ。又後なる時は先是に備る。強弱軽重、諸の所作何れも同じ。其事一にして二也、二つにして又一つなり。天にあるかと見れば、忽ち地に発し、地に発するかと見れば、端的天に在り。静なる事山の如く、動き至ては電光石火も及びがたし。是一心先後に不止が故に、一理万事に通じ応ずるもの也。雖然、事は自己の心身に能く得たる所ある者也。故に先の事を得たる者は専ら先を守て利を得、後の事を得たる者は専ら後を用て利を得る者也強弱軽重の所作何れも然也。理を以て観之ば、偏たりと云ども、其事能く身心に得る者は、外に求める利なし。他に向て是を不求ば、一心其所作に転ぜず。是則ち先後不止の道理に叶ふ者也。能く術に達する者は、先に止りても先に奪はれず、後を守ても後にとられず、事を守りても心其事に染らず、理に著しても事利に取れず、形有かと欲すれば全く形無く、形なきかと見れば正に形あり。是を邪正一如の位と云也。理を離れて勝つを、術の達者と云也。蓋し究竟窮極不存軌則と云。是を心に得、是を手に応ずるものは、心は心、事は事、我は我、敵は敵、何に向て何をか求め何をか捨ん。一事の秘伝と云も、一事の位に至るベき道なり。至ては、誰か其道を守らん。若し守て是を学ぶ者は、未至が故也。雖然未至者は、不学ば不能至事。故に一事の秘伝を以て、先後不止の道理を示す者なり。
以事持理,称为守“先”;以理持事,称为守“后”。若只停留在“先”,则“后”难以发挥作用;若只停留在“后”,则“先”也无法运作。因此,在剑术中,关键在于不执著于事理或先后中的任何一方。故先后在敌,不在我。所谓先后一事之传授,非全然有先无后,或全然有后无先。先时后亦兼之,后时先亦备之。强、弱、轻、重,诸般所作皆同。其事一而二,二而一。看似在天,忽发于地;看似在地,实端于天。静如山岳,动如电光石火,难以企及。此因内心不执着于先后,便可一理通万事而应。然而事是自身深刻修炼而得的擅长之处。因此,擅长“先之事”者,会专注于“先”以获取优势;擅长“后之事”者,会专注于“后”以获取优势。强弱轻重皆是如此。
以理的角度来看,这样的偏向性确实存在。然而,如果一个人已将“事”充分融入自己的身心,便无需向外求“理”。其内心也能通达流转。 这种状态正是“先后不止”之理。真正精通剑术之人,即便停留于“先”,也不会被“先”所束缚;即便守于“后”,也不会被“后”所困。即使坚守事,内心却不执著于事;即使参悟理,也不被理所束缚。看似有形,实则无形;看似无形,实则有形。这便是所谓的“邪正一如”之位。
离理而胜者,称为术之达人。大概这就是所谓的“究竟窮極,不存軌則”(即道至极时便没有规则。三祖僧璨《信心铭》)。得此于心,应此于手者,心是心,事是事,我是我,敌是敌,何向何求何舍。所谓一事之秘传,乃达至一事之位之道。达此境界者,谁还会守其道?若守而学此者,实则是未至其位。但未至其位者,不学则不能至。故以一事之秘传,示先后不止之道理。
一 先に体用のニつ有り。其備不変にして無事を以て攻むるを体の先と云、既に其位変じて処に随て形を現ずるを用の先と云。伝に曰、体の先は体を以て攻め用を以て守る。是敵の利を奪て其備を破り、合するを以て攻む。其利を表とし其事を裏とする也。用の先は、用を以て攻め体を以て守る。是敵の備を破て其事を奪ひ、離するを以て攻む。其事を表とし其利を裏とする也。若し体用攻守の事理を知らず、妄りに乗じて勝たんと欲する者は、首を延て討れ、手を出して斬らるゝに同じ。能く鍛鍊すべし。
“先”有体用二者。保持自身的准备不变,不做另外之事而攻者,称为体之先;而根据形势而变化,随机应变者,称为用之先。传曰:体之先,以体攻而以用守。此乃夺敌之理(即心),破敌之备,以合而攻。以理为表,以事为里。用之先,以用攻而以体守。此乃破敌之备,夺敌之事,以离而攻。以事为表,以理为里。若不知体用攻守之事理,妄图乘机取胜者,如同伸颈待斩,出手待斩一般。应勤加锻炼。
一 後は、敵の休と用とを利する二つ也。敵体を以て利せんと欲せば、其志す所に随て其用を可殺。用を以て勝んと欲せば、其現ずる所に応じて其体を破るべし。来て残る者を末に応じ、不残者を本に随ひ、本動じて末静なる者を其本を利し、本正くして末乱るゝ者を残して是に応じ、本末俱に動ずる者は其過を殺し、本末共に静なる者は其誤りを利すべし。雖然、其形に随て其色を追へば、奪るゝに利あり。事理其先に奪るゝ時は後に利なし。故に我が伝の後は、其形に向て其色を殺す者也。向殺の二つは、一体一用の事也。向を以て殺し、殺を以て向ふ者也。剣刀の発当の強弱、剣勢本末の備、剣躰前後の口伝、其得失は皆事の修行より剣心不異の全体に至て、臨機応変の事自在也。此理微妙にして伝て是に示しがたく、学んで是に至りがたし。実に以心伝心の妙理也。其寒温を自知する者は、先師一刀斎の骨髄に符節を合するが如し。
“后”,则是利用敌之“休、用”二者。若敌通过“体”占据优势,则应压制其“用”。若敌试图靠“用”来取胜,则应打破其“体”。面对出手留有余地之人应以“末”(以“事/技”应对),出手不留余地者则随“本”(以“理/心”应对);“本”动而“末”静者则利用其不安定的“本”,“本”正而“末”乱者则保留余力应对之;“本末”俱动者攻其破绽,“本末”俱静者只能利用其失误。然而,如果只是一味追逐对方的动作,容易被对方抢占先机,对方会在有利的情况下占据主导。若事理之“先”被夺,则“后”无利。因此本流所传之“后”,是指向其形(封锁对方的行动)、杀其色(制止对方的攻击)二者,乃一体一用之事。剑刀之发当(离、触)之强弱,剑势本末之备,剑体前后之口传,其得失皆从“事”之修行至剑心不异之整体的境界,临机应变之事自在。此理微妙,难以传示,难以学成。实乃以心传心之妙理。自知其寒温者,便能与先师一刀斎先生的真髓相合。
一 勝負の要は、間なり。我利せんと欲するは、渠も利せんと欲す。我徃んとすれば、渠又来る。勝負の肝要、此間にあり。故に我伝の間積りと云ふは、位拍子に乗ずるを以て間と云也。敵に向て、其間に一毛を不容、其危亡を不顧、速に其利に乗じて殺活の当的能奪の本位に可至者也。若し一心の間に止る則は変を失す。我心間に拘ざる時は、間は明白にして其位に在り。故に心に間を止めず、間に心を止めず、能く水月の位に至るべき者也。無理無事の一位を水月の本心と云也。故に求れば、是水月にあらず。一心清静にして曇りなき則は、万方皆水月なり。不至と云所なし。古語曰、遠不慮則必在近憂と。故に間に遠近の差別なく、其間を不守、其変を不待、人に致されずして疾く其位を取るは、当伝の一的也。若それ血気に乗じて無二落着する者は、我が刃を以て独り身を害するが如し。
胜负之要,在于“间”。我欲利之,敌亦欲利之;我欲往,敌亦来。胜负关键,在此“间”。故我传之“间”,乃指超越“拍子”的状态而为“间”。面对敌人,在此“间”中不容一丝空隙,不顾其危亡,迅速抓住机会掌握生死,达到此等境界。若一心执着于“间”,则无法灵活变化。我心不拘于“间”时,“间”则清晰明了自然出现。故心不止于“间”,“间”不止于心,应能达至水月之位。无理无事之一位,称为水月之本心。若刻意求之,则非水月。一心清静无染,则一切皆为水月,无所不至。古语云:“人无远虑必有近忧。”故“间“无远近之别,不执着于掌控“间”,也不被动等待对方的变化,而是在对手发起攻势之前迅速立于应有的正当之位,这是本流派追求的目标之一。如果只是凭借血气之勇,一味地想要强行解决问题,便如同被自己的刀刃所伤一般危险。
一 敵の事を以て我事とし、敵の理を以て我利とす。是鸚鵡の位と云なり。強を強く、弱を弱く、撃っ者を撃ち、突く者を突く、千変の利何れも如此。是を敵の事に向ふと云也。強を弱く、弱を強、打つ者を請け、請る者をばはづす。万化の利何れも如此。是を敵の理に随ふと云也。実を以て来る者には実を以て向ひ、虚を以て来る者には虚を以て随ひ、敵能して能せざる事を示す時は、我も又能して不能事を示す者也。
以敌之“事”为我“事”,以敌之“理”为我“理”。此称为鹦鹉之位。强以强对,弱以弱应,击者击之,突者突之,千变皆是如此。此称为向敌之“事”。强以弱对,弱以强应,打者受之,受者避之。万化皆是如此。此称为随敌之“理”。以实来者以实应,以虚来者以虚随,敌留有余地时,我亦隐藏实力。
一 術は、実を備て虚に変じ、虚を示して実に転ず。敵に向ふ時、愚にして先づ負るは謀の利也。誠に兵者詭道也と孫子も云り。故に一偏に是を心得る者は、敵に因て転化する事能はざる者なり。一剣一理を主とする則は、一心不変の位に備る。是を思無邪と云。前に書するが如く、術の至極也。是を単刀と云なり。単刀は敵の無形無色を討ち、事理未発己前を全く勝っ、事の高上也。されば太公の曰、兵勝術、密察敵人機、速乗其利亦疾打其不意と。当流の剣法を学ぷ者は、此理を能く観じ、其法を学び修行する則は、術の高下によらず自己相応の道理を得る者也。たとへ事に功ありといえども、心実の理なきものは勝利を得がたし。事不功たりといえども、心実を以て是を学ぶものは、勝利を得る事何の疑かあらん。誠に此術は、士の一芸、勇者の具足なり。故に我其実を撰で之を伝ふ。学ぶ者謹んで是を秘するは、士の実なり。目前の事を山のあなたと示すは、術の掟なり。
术,备实而变虚,示虚而转实。向敌之时,先示愚而负,乃谋之利。诚如孙子所言:“兵者,诡道也。”故偏执一端者,难以因敌而转化。以一剑一理为主,备于一心不变之位。此称“思无邪”(《论语·为政》“诗三百,一言以蔽之,曰:思无邪。”)如前所述,乃术之至极。此称“单刀”。“单刀”即在敌尚未显露形态或意图之前便先行制胜。在“事理”未发之前便取胜,此乃“事”的极致。故太公曰:“兵胜之术,密察敌人之机而速乘其利,复疾击其不意。”学当流剑法者,应善观此理,学其法而修行,则无论术之高下,皆可得相应之理。纵使“事”有功,若心无实“理”,则难以得胜。纵使“事”无功,若以心实学之,则得胜无疑。诚然,此术乃士之一艺,如勇者之铠。故我择其实者而传之。学者谨秘此术,乃士之实。示目前之事亦如山之彼端,乃术之规。
一 事の利と云は、我一を以て敵の二に応ずる所也。譬ば打ちて請け、外して切る、是れ一を以て二に応ずる事也。請けて打ち、外して切るは、一は一、二は二に応ずる事也。一を以て二に応ずる時は必勝つ。一を一、二を二に応ずる時は或は勝ち或は負く。一を二と行く時は忽ち負る者なり。強弱·軽重·順逆·遅速·進退、何れも千刀万剣の事、其得失邪正は茲にあり。能是を考へ修行すベし。
所谓“事”之利,乃以我一应敌之二。譬如打时受之,避时而切之,此乃以一应二之事。受时而打,避后而切,乃一应一、二应二之事。以一应二时必胜,以一应一、二应二时或胜或负。以二应一而行时,则速败。强、弱、轻、重、顺、逆、迟、速、进、退,千刀万剑之事,其得失邪正皆在于此。应深思而修行之。
一 剣刀に長短の分ち是有り。我長なる時は、体を以て利を写し、我短なる時は、体を以て利に移る。長短等則は、移写其機に因て変化すベし。雖然、渠と我と事理平等にして其得失を考ふるに、長は短を利するに過ぎず、其短は長を打に過ざれば不及、是其形に一得備るが故也。事は形を以て本とする利あり。故に其形に一得を備る者は、事の変化行ひ易し。変化行ひ易き時は、其利も亦自ら正し。雖然、長短は自己の手に応じ心に得るを以て是を用て可也。故に我伝に、剣刀の長短寸尺に定法なし。長は雖為利、我に応ぜざれば是を用ても全く利なし。短は不及の利たりと云ども、我是を得る時は却て利あり。故に長にして短を不欺、短にして長に不奪を、長短一味の伝授と云也。然るを剣刀の長短に拘り、或は其刀を撰む心、其器に拘る時は術の本心を失ふ。我心に吹毛の利剣を帯する者、何で刀剣に拘らんや。たとゑ利剣を提ても、肉をきらざれば是鈍刀也。鈍刀を提ても、骨を碎くときは、是則利剣也。一心清静の刃を能く磨く時は、提る処の刀剣は即吹毛の剣也。是本来具足の一刀は、刹那も心身を離るゝ事無く、時に順つて殺活自在也。夫れ長は勝ち短は負く。長短等くば一度は勝ち一度は負く。不足には勝ち、不及に負け、相対には或は勝ち或は負く。是理の順也。然るを己が分限を知らず、我堅固にして他を害せんと欲せば、是非道なり。勝負の根元は自然の理にして、是非全く計り難し。不思に勝、不量に負く。勝つべきに却て負、負くベきに全く勝ち、或は俱に死し或は俱に生ず。善にて亦不善、悪は悪にして亦悪にあらず、何に向て勝事を楽み、何れに向て負くる所を悲まんや。人間無常の習、其得失は唯天道自然の妙理也。故に敵に向ふの時、勝負の是非を念はず、一心生と死を放れて、命は天運に任せ、義を守て臆せざる時は、十万に敵なし。敵なき時は何を以てか負けん。千刀一刀、万剣一剣の秘密也。能く是を知るは智也、能く是を行ふは勇也。智と勇と術と相兼る者を、当流剣法の明達と是を云なり。
剑刀有长短之分。我长时,以其长创造优势;我短时,以移动变化创造优势。长短相等时,因机而变化。然敌我“事理”平等,考其得失,长仅利短,短仅打长,则不及,此因其形之故。“事”以武器为本,因此武器上有优势,则“事”之变化更易,其利亦自正。然武器之长短应依己之手、心得而用之。故我传中,剑刀之长短寸尺无定法。长虽为利,若不应我,则用之亦无利。短虽为不及之利,若我得之,则反有利。故长而不欺短,短而不夺长,称为长短一味之传授。然若拘于剑刀之长短,或择刀之心,拘于其器,则失术之本心。心中带有吹毛之利剑者,何拘于外在之刀剑?纵提利剑,若不切肉,则与钝刀无异;纵提钝刀,若能碎骨,则为利剑。时常磨砺内心之刃,所提刀剑即为吹毛之剑。此等境界,纵使内心之一刀未与心身分离,亦可杀活自在。一般而言长胜短负,长短相等则一胜一负。敌之力有不足则我胜,我不及敌者则负,相对者或胜或负。此乃自然而然之理。然若不知己之分寸极限,一味的想要杀敌,则为非道。胜负之根元乃自然之理,一切难料。有时不思而胜,有时不量而负。有时应胜反负,有时应负反胜,或俱死,或俱生。善亦不善,恶亦非恶,为何因胜而乐,何向因负而悲?人生无常,其得失唯天道自然之妙理。故向敌时,不念胜负是非,一心不思生死,命任天运,守义不惧,则天下无敌。无敌之时,何以败?此千刀一刀,万剑一剑之秘密。善知此者为智,善行此者为勇。智、勇、术兼者,称为当流剑法之明达。
一 渠と我と分て、不思に来り、不量に去り、待つ処に不来、行く処はふせぐ。我如此なれば渠も亦同じ。其不思所を打ち、其不量所に応ず。其変無窮にして、其化常なし。自然の妙理を得て万機に応ず、是を事の勝負と云也。渠と我と一心一躰にして、我思ふ所を渠も思ひ、我量る処を渠も量り、動寂又唯一物にして、鏡に向て影をうつすが如し。茲に至りて、勝べき事もなく知るベき事もなし。若し勝んと欲せば即負け、不勝ば又負る所なし。自然の理と云も、当然の事と云も不然。事理の有無を滅却せずんば、誰か是に勝たん。不勝は是術の本心にあらず。故に術を放捨して別伝の高上に至らば、何ぞ対する敵あらんや。若兹に来て向はんとせば自ら殺し、向て不来者は自滅すべし。是殺人刀、活人剣。
纵使敌我分明,敌亦可不思而来,不量而去,待其处而敌不来,而我欲行之处则受敌阻之。我如此,敌亦同。击其不思之处,应其不量之所。其变无穷,其化无常。得自然之妙理而应万机,此称为“事之胜负”。敌我同心一体,我思之处敌亦思,我量之处敌亦量,动与静合为一物,如镜映影。至此,无可胜之事,亦无可知之事。若欲胜则败,若不求胜则无败处。此并非简单的自然之理和当然之事。若不超越“事理”境界,如何能真正的取胜?不胜非术之本心。因此若舍术而至更高的层次,则何敌可对之?若要与此境界之人刀剑相向,则是自取灭亡;即使不主动进攻,也会自灭。此乃杀人刀、活人剑。(禅宗语录,《碧岩录》等典籍中多有记载。其意为,在引导人学习时,既有禁止的手段(即杀人刀),也有容许的手段(即活人剑)。也就是夹逼法)
此前分享的夕云流内容中的“相拔”所追求的境界与此相似。或者说东亚的武术思想绝大多数都会提及这些。
右者兵法剣術之事理伝来之口伝、去承応二癸巳暦、於武州江戸書之、公依執心今亦別紙寫之、則口伝以而授之畢、全他見不可有之者也。
上述兵法剑术的事理与传承的口传。于承应二年癸巳之年,在武州江户记录。由于深思熟虑,现在又另行抄写于别纸,并以口传方式授予。此内容绝不可让外人看到。
牢日传统,他见坚禁之
寬文四甲辰暦林鍾仲旬
一刀流口伝之太刀、於末代為無違之。
古藤田弥兵衛尉俊定 自書之。
古哥に
〇見ぬ人に 何と語らん 津の国の 難波の浦の 春の あけぼの
未曾见过此景之人,如何向其诉说?春天的津之国难波的海滨的拂晓。
〇忍びつ 幾度かきぬ 玉章も 思ふほどには 云れ ざりけり
偷偷写了多次书信,但这些情意的信笺,终究未能如我所愿,将我的思念完全传达。
古語日、
事至極処則難説。
理至極処則難明。
(禅语、虚堂和尚语录。)
伊藤一刀斎 景久
古藤田勘解由左衛門 俊直
古藤田仁右衛門 俊重
古藤田弥兵衛 俊定