

「ファンタジー・オン・アイス」は「伝説のアイスショー」ともいわれる豪華絢爛なエンタテインメントです。 今年は幕張、静岡、金沢、神戸の4会場でショーを開催。その皮切りとなる幕張公演(5/29〜31)を終えたばかりの羽生結弦選手にインタビューしました。
羽生選手が語ってくれた アイスショーならではの楽しさ
世界の一流スケーターたちが一堂に会する「ファンタジー・オン・アイス」。日本からは織田信成、安藤美姫、鈴木明子、宇野昌磨、世界からはプルシェンコ、フェルナンデス、ランビエルといったスターたちが次々と華麗な演技を披露するなかで、大トリのグランド・フィナーレを務めたのが羽生結弦選手でした。情感あふれるエモーショナルな演技に観客の目は釘づけ。演技が終わった途端、ひときわ大きな喝采が鳴り響き、満員の会場全体が大きな感動に包まれました。最後には4回転ループに挑戦するパフォーマンスもあり、会場を大いに沸かせてくれました。熱気と興奮が冷めやらぬ幕張メッセイベントホールにて羽生選手に直接お話を聞くことができました。

昨年もこの幕張公演に出演されていますが、そのときのことは覚えていますか?
羽生選手:「昨年の幕張では郷ひろみさんとのコラボレーションということで、かなり緊張していたのを覚えています。とにかく歌詞の意味もしっかり噛みしめながら演技をすることができたと思います。」
昨年の「ファンタジー・オン・アイス2014」幕張公演ではスペシャルゲストとして郷ひろみさんが登場。郷さんがライブで歌うバラードに合わせて、羽生選手が演技を披露して会場を沸かせました。 今年の幕張公演でも、スペシャルゲストのR&Bシンガー、シェネルさんとのコラボレーションで、素晴らしいスケーティングを見せてくれた羽生選手でした。
幕張公演の3日間はどんな思いを込めて演技をされましたか?
羽生選手:「演技の最初から最後まで感情をフルに出して演技するよう心がけました。感情をいっぱい込めて滑ることは僕も大好きなので、とても幸せな時間だったと思います。」
4回転ループに果敢に挑む姿が印象的だった幕張公演。アイスショーでもチャレンジする姿勢を忘れない羽生選手らしい真摯な演技が会場を大いに魅了しました。
ファンのみなさんに、ひとことメッセージをお願いできますか?
羽生選手:「みなさんと一緒に楽しみ、一緒に曲に浸り、みなさんとの一瞬一瞬を感じながら、幸せを噛みしめながら滑らせていただきました。」
ファンを大切にする羽生選手らしい素敵なコメントをいただきました。どうもありがとうございました。







4才の頃にフィギュアスケートを始めた羽生選手。無我夢中でスケートを楽しんでいた幼年時代から一流のアスリートへと成長していく日々を、「成長の軌跡」として全3回にわたってお届けします。1回目では、スケートを始めたきっかけからジュニア時代までの歩みを、学校での思い出や家族とのエピソードを交えながら振り返っていただきました。

フィギュアスケートとの出会い
今や日本、ひいては世界を代表するフィギュアスケート選手となった羽生選手。スケートを始めたきっかけやその当時のエピソードを語っていただきました。
きっかけもライバルも、姉でした
フィギュアスケートを始めたきっかけは、姉がやっていたから。当時は姉がやることには何でもついて行っていましたし、全部真似していました。その流れで、姉が通っていたスケート教室に入りました。当時4歳の僕にとって、4才年上の姉は絶対的な憧れの存在であると同時に、勝手にライバルと思って、いつか抜かそう!と思っていました。姉はなんとも思ってなかったと思いますけどね。姉を追いかけてやっているうちに、自然と引き込まれていったんだと思います。

難しかったからこそ、 夢中になったんだと思う
当時は無我夢中になって練習していたのですが、スケートの魅力は何となくわかっていた気がします。スケートは非日常なものであって、普段歩くスピード以上の早さが出るし、ジャンプもスピンも陸上では考えられないような動きができる。そして、それが難しかったからこそ僕は夢中になれたと思います。
その頃から、目標は金メダル!
僕はとにかく負けず嫌い。実はもうその頃から“オリンピックに2回出て、2回とも金メダルを取る!”といつも母に言っていました。母は「なんでそんな自信があるの?」って、あきれていたみたいです。学校でも学芸会では主人公になりたいタイプ。だから、練習は嫌だったけれど、みんなが見てくれる試合は大好きでした。リンクをひとりじめして、みんなに見てもらえている緊張感が、ものすごく好きでした。
家族の支えとともに、 歩んできた奇跡
6歳の時に出場した大会で初優勝。その後も数々の大会で頭角を現し、15歳の時には日本男子史上初の、中学生での世界ジュニア選手権金メダルという快挙を成し遂げます。瞬く間に才能を開花させていった年月は、羽生選手、そしてご家族にとってどんな日々だったのでしょうか。
しょっちゅう、やめたいと思っていた
小さい頃、練習は大嫌いでした。基本的につまらないものだし、怒られるし、怒られて泣くので、いつもリンクから追い出されていました。最後まで練習ができたためしがないんじゃないかなっていうくらい。それに、小学生になるとフィギュアスケートをやっている男の子ってあまりいないんですよね。野球やサッカーをやっている子ばかりで。父が野球をやっていたので自分も野球やりたいなっという思いもすごくあって、しょっちゅうやめたいと言っていました。

負けず嫌いだから、 やめなかったんだと思う
「スケートやめたい」って両親に言うと、いつも「じゃ、やめれば」「野球やれば」とあっさり言われるんです。決して嫌味ではないんですが、僕も負けず嫌いなので諦めきれなくなって。それに両親は、好きじゃないものを押しつけるのでなく“好きかどうか、やりたいかどうか”を大事にしてくれました。それが一番のサポートだったと思っています。いつもその言葉があったからやめなかった。つまり“やっぱりスケートが好きだったから”だと思います。
両親の支えがあったから、 ここまでやってこられた
もちろん、両親の日々のサポートなくしては続けられなかったと思っています。母はほぼ毎日送り迎えをしてくれたし、近所のリンクが閉鎖して遠くまで通うようになった時は、父も送り迎えをしてくれました。衣装を作ってくれていたのも母です。最初の試合からシニア1年目までずっと。洋裁を習ったこともないのに、型紙から作ってくれて。当時は仮縫いのためにじっとさせられていたりして、面倒くさいなあ、なんて思っていましたが(笑)、今思うとすごく支えられていたんだなと思います。 今でも、フィギュアスケーターとしての羽生結弦でもあるけれども、やっぱり一人の人間というか、「羽生家に生まれた結弦」というところも大切にしていきたいと思っています。
リンクの外での、子供時代の素顔
家族とともにスケートに捧げた日々。スケート以外の時間は、どんな風に過ごされていたのでしょうか。学校での勉強や、遊びの時間のエピソードについても話していただきました。
練習以外の時間で、 思いっ切り遊んでいました
とても活発だったと思います。勉強は、始めるとハマるタイプなんですけど、国語は苦手でした。歴史や科学、数学だとかそういうのは好きでした。国語だけは、自分の中で納得できる点数は取れなかったです(笑)。放課後はランドセル背負ったままリンクに通っていたので、その分、朝や昼休みだとか休み時間にドッジボールをしたり、目一杯遊んでいた記憶があります。学校で遊んでいたという感じです(笑)。

羽生結弦選手 ジュニア時代の成長と歩み
1998 4才 姉の影響でスケートをはじめる
2000 6才 千葉の「ダイエーカップ」で初優勝
2004 10才 近所のホームリンクが経営難で閉鎖
2008 13才 全日本ジュニア選手権初優勝
2009 14才 全日本ジュニア選手権2連覇
2010 15才 世界ジュニア選手権優勝、シニアデビュー

15歳でシニアデビューを果たした羽生選手は、技術、表現ともに磨きをかけていきました。その翌年に起こった東日本大震災は、羽生選手と家族にどのような影響を与えたのでしょうか。「成長の軌跡」第2回目の今回は、輝かしい成長の裏で、困難と向き合った日々に感じていたことを、特別に語っていただきました。

鮮烈なシニアデビュー
羽生選手のシニアデビューは、ジュニアに昇格して2年目の2010年の秋。通常、大学1年生頃までジュニアに残る選手が多い中、高校1年生での参戦は異例の早さです。さらに、グランプリシリーズの初参戦となるNHK杯では、初の4回転トウループに成功。鮮烈なスタートをきったシニア時代は、どんな日々だったのでしょうか。
自分を成長させるために、 シニアの道を選んだ
早めにシニアに進んだのは、当時出場したジュニアグランプリを全試合優勝することができて、1日も早くシニアという大きな舞台で戦いたいと思ったからです。もちろんコーチや両親、いろんな方から勧められたこともあったのですが、僕自身も早く挑戦したいという気持ちがありました。シニアでは演技時間も長くなるし、4回転も入ってくるので体力的にも技術的にも難易度が高くなります。より厳しい環境に身を置いて、試練があった方が絶対成長できると思っての決断でした。

自信が過信だと気づいた時、 前に進めた気がします
最初のNHK杯で4回転を成功させたことは、シニアでやっていく自信になりました。なぜなら、その頃は練習でも4回転の成功率は50本のうちの1本ぐらいの確率でしたから。でもそれは自信というよりも過信だったんですね。その後のロシア杯以降は全然決まらなくて…ジュニア気分でいた自分の甘さを痛感しました。そこからは、もがいてもがいて、練習を重ねました。だからこそシーズン最後の四大陸選手権でやっと成功して、2位になった時はやっぱり嬉しかったです。
自分の想いを表現するスケートへ
2011年3月11日、東日本大震災。2月にシニアデビューシーズンを終えたばかりの羽生選手は、自宅近くのリンクで練習中に被災し避難所へ逃れました。スケートを再開した後は、復興チャリティのためなどのアイスショーに参加するため全国を転々。言葉には尽くしがたい体験を、羽生選手はどのように受け止めていたのでしょうか。
仙台を離れ、 アイスショーで全国を巡る日々でした
震災後は、東神奈川のリンクでお世話になりながら、震災のチャリティのためなどのアイスショーに参加していました。父は仙台で仕事があり、姉も学校があって仙台を離れられなかったので、僕と母の2人で全国のアイスショーを転々とする、ホテル暮らしの日々でした。その頃からですね、母と二人三脚になってスケートに打ち込んでいくようになったのは。

スケーターとして、 仙台の人間として感じていたこと
震災直後は、スケートを続けていいのかどうか、迷ったこともありました。多くの方が地震や津波のいろんな被害に遭われている中で、僕はまだ生活もスケートもできるような状態にあるにもかかわらず、自分が被災者代表のように見られていいのだろうか、被災地のことを語っていいのだろうかという申し訳なさを感じていました。こんな大変な状況の中でスケートを続けることが被災地の役に立つのだろうか、と思ったこともありました。でも同時に、そんな自分をたくさんの人が心配し支えてくれていること、そしてスケートができるということがどんなに有り難いことなのか、ということを改めて感じました。仙台で生まれ育った人間として自分に何ができるのか、また一人のフィギュアスケーターとして何が伝えられるかということを考え続けていくきっかけになったと思っています。
自分の経験、想いを表現していきたい
震災後、初めての公演は神戸でした。この時、皆さんの前でホワイトレジェンド=白鳥の湖をやらせていただいたのですが、その時にはじめて、この白鳥の湖で、「言葉にできない想いを皆に伝えたい」、「自分が経験して、感じたことを表現したい」と、切実に思いました。シニア1年目で自分の力が通用しなかったこと、そして震災を体験して、自分が表現したいことは何なのか、この曲に合わせて自分がどういう気持ちで滑ればいいのかとか、そういうことをかなり考えるようになりました。この時の「白鳥の湖」をきっかけに、自分の想いを表現するスケートに変わっていったと思います。

羽生結弦選手 シニアデビューの頃の出来事
2010 15歳 シニアデビュー
NHK杯で4回転トウループを成功させ4位入賞、四大陸選手権の代表に選出。
四大陸選手権にて銀メダル獲得、男子史上最年少のメダリストになる。
2011 16歳 東日本大震災
復興チャリティーなどのアイスショーに参加するため全国を転々とする。

震災後、羽生選手が本拠地に選んだのはカナダのトロント。ここからソチオリンピックへと羽ばたき、見事金メダルを獲得したのは記憶に新しいところです。「成長の軌跡」第3回目の今回は、カナダでの生活や家族との時間、オフの日の過ごし方、そしてこれからの目標について語っていただき、羽生選手の新たな一面に迫りました。

新天地、カナダの日々
2012年から、羽生選手は新しいコーチであるブライアン・オーサー氏に師事するため、仙台を離れカナダのトロントにある名門スケートクラブを本拠地にしています。世界中のスケーターと共に実力を磨き合う新天地での日々の中で、どんな変化があったのでしょうか。
世界中のライバルがいる、 緊張感をくれるリンク
カナダへ行き、これまでと大きく環境が変わったことは刺激になりました。カナダを選んだのは、4回転ジャンプが得意なハビエル・フェルナンデス選手がいることもかなり大きかったです。僕は、緊張感があった方がいいパフォーマンスができると思っています。ジャンプも、試合前の公式練習の時に初めて成功することも多いのですが、それは、目の前でライバル選手たちが滑っているから。ここにはそれと同じような緊張感があるんです。目の前でハビエル選手がジャンプを跳ぶ。「うまいな」、「負けたくない」と思う。そんな緊張感の中で日々練習することは、自分にとって大きなプラスになりました。

基礎力とメンタル面の強化が、 結果につながった
カナダのクラブは、フィギュアスケート専門のリンクなので氷の上に立つ時間も多くなり、練習時間そのものが増えました。練習の内容も基礎のスケーティングから見直し、体力アップトレーニングの強化などの内容、そして質も変わりました。またコーチから、試合の時の集中の仕方や気持ちのコントロール方法を教わったことも、ソチオリンピックへの自信につながったと思います。
今の生活、家族のこと
現在はカナダを拠点に世界中を駆け回り、オフシーズンも日本でのアイスショーなどスケートに明け暮れる日々。貴重なオフはどのように過ごされているのでしょうか?2013年には早稲田大学に進学し、学生の顔も持つ羽生選手。家族との過ごし方など、羽生選手の素顔に迫りました。
氷に乗らない日は、学校の課題を
オフシーズンといっても、アイスショーや取材などもあるので、純粋なオフはあまりないです。オンシーズンでも、体調のコントロールを考えると、練習と休みのバランスを取ることも大切なので、氷に乗らない日もよくあります。その時は、基本的には勉強しています。今、情報科学を専攻しているのですが、課題がけっこう大変なんです。ネット上で授業を受講して、レポートを書かなくてはいけなくて、時々テストもあります。課題も毎週出るので、夏休みの宿題みたいに最後にまとめて、というわけにはいかないです(笑)。

離れている分だけ、 家族の時間を大切に感じる
休みがあっても、母と僕はトロントに、父と姉は仙台にいるので、家族全員で過ごす時間はあまりないです。家族で旅行へ行ったりすることもほとんどなくて…。姉と父には「夏休みはカナダに来られたらいいね」と話しているのですがなかなか実現できません。家族が揃うのは、アイスショーのために日本に戻って、実家に帰った時とかです。みんなでテレビのニュースを見ながら話したり、姉とゲームをしたり。ごく普通の家庭の風景だと思いますが、離れて暮らしている分だけ、その時間の貴重さを感じます。
大切にしていること
2014年は大会中の衝突事故などもありましたが、それを乗り越え、2015年の4月の国別対抗戦ではショートプログラム、フリースケーティング共に個人1位に返り咲きました。さらに、エキシビションでは4回転ループを成功させ、ベストな状態でシーズンを終えた羽生選手。今、どんな目標を抱いているのでしょうか。
日々、課題を見つけて挑んでいくこと
毎日練習していれば、必ず課題にぶつかります。例えば4回転ループは、いつでも完璧に成功するわけではないし、跳ぶシチュエーションによっても変わってきます。ジャンプだけではなく、スケーティングやスピンでも同じことが言えます。コンディションのいい日、思うようにいかない日もある中で、今日はここがダメだったから明日こうしてみようとか、その都度、その課題に向き合って、挑んでいくこと。常に自分の中で課題を見つけて克服していくことが大切だと思っています。

羽生結弦選手 カナダに移動後〜現在までの歩み
2012 17歳 カナダへ渡る、全日本選手権初優勝。
2013 18歳 早稲田大学へ進学、 グランプリファイナル初優勝、 全日本選手権2連覇を達成。
2014 19歳 ソチオリンピック金メダル、 グランプリファイナル2連覇、 全日本選手権3連覇。
2015 20歳 国別対抗戦においてショートプログラム、 フリースケーティング共に個人1位に輝き、 2014-2015シーズンを 締めくくる。

フィギュアスケート界の頂点を極めた羽生選手。現在に至るまでの道のりは、決して順風満帆だったわけではありません。ジュニア時代から数多くの大会に出場してきましたが、時には思うようなスケートができずスランプに陥ったことも。新テーマ「今語る、あの瞬間」では、羽生選手にとって特に大切な3つの大会について語っていただき、全3回にわたってお届けします。その時、何を感じ、何を思ったのか。今回は、羽生選手の快進撃のきっかけとなった全日本ジュニア選手権についてお伺いしました。

世界を見据えた、 全日本ジュニア選手権
全日本ジュニア選手権は、フィギュアスケーターにとって世界ジュニア選手権出場への選考を兼ねた重要な試合。この試合で優勝するということは、世界への切符を手にすることを意味します。当時13歳の羽生選手は、どんな思いを抱いていたのでしょうか。
どうしても勝ちたかった
ジュニアに昇格した頃は、まだそれほど実績を残せていなくて、世界ジュニアに出場できるような実力も伴っていなかったと思います。でも、全日本ジュニアで優勝したら世界ジュニアに出られる。だからこの試合に懸ける気持ちはかなり強かったです。もちろんどんな試合でも、出場するからには負けたくない。だから毎日ひたすら、トリプルアクセルの練習に励んでいた記憶があります。

納得できる演技ではなかった
全日本ジュニアの試合のことは今でもよく覚えています。曲はラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」。演技自体はよかったと思うのですが、大事なトリプルアクセルを決めることができませんでした。僕の中で、トリプルアクセルは絶対に決めなくてはいけない“要”です。それをミスしてしまったので、100%納得のいく演技ではありませんでした。
やった!世界ジュニアに行ける
優勝の瞬間は、一言で言うと「勝っちゃった!」という感じでした。トリプルアクセルを跳べなかった僕がまさか優勝できるなんて思ってもみなくて、自分でも驚きました。戸惑いもありましたが、勝てたことへの嬉しさや「世界ジュニアに行けるんだ、これからもっと頑張ろう」という気持ちが大きかったです。その日の夜は、お祝いに家族で大好きなトンカツを食べに行ったことを覚えています。

世界で見たもの、気づいたこと
全日本ジュニア選手権で初優勝した後も、全日本選手権などシニアの試合にも積極的に挑戦し、羽生選手の快進撃は続きました。そして臨んだ世界ジュニア選手権。初めて世界に挑んだ経験は、羽生選手の今にどんな風に活かされているのでしょうか。
トリプルアクセルを跳ばなくちゃ
世界ジュニア選手権でもトリプルアクセルは決められず、他のジャンプのミスもあって、結果は12位。日本の男子ジュニアの出場枠をもう一つ増やすチャンスでもあったのに届かなくて…悔しかったです。こんなんじゃダメだと思わされました。それに、世界ジュニアの試合には、すでにシニア大会に出場しているジュニアの選手が、世界ランキングのポイントを稼ぐために出場するから、選手のレベルも高くなります。この人たちに勝つためには、トリプルアクセルを跳ばなくてはいけないんだと痛感しました。技術でもメンタルの面でも、すべてにおいて課題をたくさん突きつけられた試合でした。
負けたから、今の自分がある
世界ジュニアで負けたことで、それまでの自信が「過信」だったと気づかされました。僕のスケート人生において、自分の力を大きく見すぎることも多くて、そのせいで勝負に負けることも多かった。でも、そういう過信して負けた経験があったからこそ、負けないためにはどうしたらいいのか、どうやったら課題をクリアしていけるのか、そういうことを常に考えるようになりました。だから今思うと、無駄な経験は一つもなかった—今ではそう思っています。


2014年、ソチオリンピック。世界中のスケーターが頂点をかけて挑む舞台であり、羽生選手が子供の頃から目標としていた夢の舞台です。 「今語る、あの瞬間」第2回目の今回は、オリンピックという大舞台で想像を超えた重圧と戦ったこと、そしてメダルの瞬間、“嬉しいより悔しい”と語ったコメントの陰に隠れた思いについても、じっくりお伺いしました。

はじめてのオリンピック
ソチオリンピックから新しく加わった、団体戦のショートプログラムに出場した羽生選手。開会式より早く試合が行われる団体戦に備えて、開会式の4日前の2月3日にはソチに入って準備を開始していました。そしてそこには、オリンピックならではの体験や、嬉しい出逢いもありました。
集中力を保たなくちゃ
ソチに入ってまず思ったことは、とにかく期間が長いということ。開会式前日には団体戦の試合があり、本番が終わった後にすぐにまた本番があるような感覚が、個人の決勝までの9日間、ずっと続きました。団体戦と個人戦でショートも2回滑ることになるので、それぞれのピークを調整するのに苦労しました。長い期間、最後までずっと集中力を保ち続けなくてはならないことも、オリンピックならではの体験だったと思います。

憧れの人と一緒に滑った!
オリンピックで初めて、選手としてプルシェンコさんと一緒に練習したんです。プルシェンコさんは、小さい頃から僕にとってのヒーロー。僕はプルシェンコさんの演技を見て、オリンピックに出たいと思ったんです。憧れの人とオリンピックのリンクに並んで立っている…それだけで感動しました。練習の時に言葉を交わしたのですが、舞い上がって話の内容を全く覚えていません。握手もしましたが、「絶対に手を洗わないぞ」って思いました(笑)。プルシェンコさんは、僕が滑っているのを練習中ずっと見ていてくれました。プルシェンコさんと一緒に練習できたことは、ソチオリンピックでの最高の思い出の一つです。
いざ、メダルをかけた舞台へ
日本中の人々が固唾を呑んで見つめた羽生選手の演技。そして金メダルの瞬間。大舞台で、羽生選手はどんなことを思っていたのでしょうか。
いつも通りやれば大丈夫
団体戦やショートの演技はすごく集中していました。いつも通りやれば絶対大丈夫だ、とにかくいい演技をしようと、それだけを自分に言い聞かせていました。曲にも乗れて、最後までとても気持ちよく滑ることができたんです。ショートの点数が100点を超えることができて、その時は思わず「金メダルだ!」と思いました。
金メダルはダメかも…
フリーでは、身体が思うように動きませんでしたし、演技にもうまく集中できなかった。メダルのこととか、いろいろな雑念を払拭しようと必死でしたが、そう思うこと自体が雑念で…滑り終わった時には、絶対に逆転されてしまうだろうなと思って、金メダルはほとんどあきらめていました。とにかくふがいなくて、悔しさでいっぱいで。パトリック・チャン選手の演技を見ている時は、「むしろ潔く負けたい」と思っていたくらいです。だからこそ、金メダルが決まった時は、本当に驚きました。

たしかに魔物はいた
今、振り返ると、あれが“オリンピックの魔物”だったのかなと思います。ショートで思った以上の点数が出てからは、金メダルが脳裏をちらついていました。もう、その時点で僕が演技に集中していない証拠です。でも、メダルを意識していたのは僕だけではありませんでした。ほとんど全員が意識してガチガチになっていて、フリー直前の6分間練習の時も、異常なほどピリピリした空気が流れていました。あのフリーで、ノーミスで滑れた選手はいなかったと思います。パトリック・チャン選手も、僕と同じように本来の滑りができず同じような点数でした。だから結果的に、ショートでリードしていた僕が金メダルを獲れたんです。よく“オリンピックには魔物がいる”と言いますが、僕の魔物の正体は自分自身が作り出してしまった“弱さ”だったのではないかと、今では思っています。
世界一の表彰台から見た景色
子供の頃から想い描き続けた、オリンピックの表彰台。ついに金メダルを胸にかけた時。まさに世界の頂点に立った瞬間のことを、改めてお伺いしました。
ひとりで獲ったものじゃない
表彰台に立った時、リンクサイドのオリンピックマークがライトに照らされて輝いているのが見えました。その時にやっと「オリンピックで表彰台に立っているんだ。1位なんだ」と実感できたのを覚えています。そして、たくさんの方が手を振ってくださっているのが見えて。これまでお世話になった方一人一人の顔が浮かんできて…改めて、金メダルは自分一人で獲ったものじゃないんだ、という感謝の気持ちがこみ上げました。同時に、胸のメダルに恥じないようにもっと練習して、世界選手権に向けて始動しなきゃいけないとも思いました。

「緊張した!」大会でした
家族に会ったのは表彰式の時でしたが、開口一番「緊張した!」と言われました。前日のショートが終わった時の感想は「感動した!」でしたが、金メダルを獲った時は「不安だった」「祈ってたよ」といった言葉ばかりでした(笑)。ショートで一気に盛り上がって、フリーで一気に落ち込んで、「金メダルはダメかも…」って。僕や家族だけじゃなく、見ていた誰もがきっとそう思いましたよね(笑)。でも表彰式の時には、僕も金メダルを獲ったことを実感できて、家族みんなで喜び合うことができました。

ソチオリンピック後、2014年11月のこと。上海で行われたグランプリシリーズ第3戦の公式練習中に、羽生選手と他選手が衝突するというアクシデントが起こりました。 「今語る、あの瞬間」第3回目の今回は、心配する周囲の反対を押し切ってまで棄権しなかった理由、痛みをこらえて最後まで演技し切った時のこと、その後のリハビリをどう乗り越えたのかを伺いました。

衝突の瞬間のこと
フリースケーティング直前の公式練習中。突然、観客席から悲鳴があがりました。氷上には、倒れ込んだ2人の選手の姿。あの時、羽生選手の身に何が起こったのか、ご本人の言葉で語っていただきました。
とにかく練習に集中していた
あの時は、お互いに自分の練習に集中していて、周りが見えていませんでした。演技をしている時は、必ずしも進行方向を見ているわけではないので。振り向いた瞬間には、もう相手の選手が目の前にいました。時速60㎞とか70㎞のスピードが出ている状態だから、どうしようもなかったです。みぞおちを打って飛ばされ、そのまま顎を強く打ってしまいました。

絶対に出場したい
その瞬間はとにかく痛かった。そして、みぞおちを打ったせいか呼吸ができなくて、どうやったら息ができるんだろう、と思うほど苦しかったです。頭がぼんやりとして何も考えられないまま、時間だけが過ぎていました。顎と耳の上を縫ってもらったのですが、麻酔なしの処置だったので、これもすごく痛くて。でもしばらく休んでいたら落ち着いてきて、歩けるようになってきて。そうしたら「絶対滑れる、絶対出場したい」と思ったんです。
全ては グランプリファイナルのために
応急処置を受け、脳震盪の心配はないと診断されたものの、油断ならない状況。痛みをこらえ、心配するコーチや両親の反対を押し切って出場したその真意はどんなところにあったのでしょうか。
ここで終わりたくない
この試合に出場することにこだわったのは、シリーズの最終戦となるグランプリファイナルに絶対に出たいと思っていたから。それだけです。グランプリファイナルに出るには、この試合でポイントを獲得しなくてはなりませんでした。ショートである程度点数を取っていたので、フリーがよくなくても最後まで演技をすれば順位という形でポイントがもらえます。そうすれば次のNHK杯に可能性をつなげることができると思いました。それに昨年、オリンピック、世界選手権、グランプリファイナルで三冠を取っていたので、シーズンチャンピオンという意味を持つグランプリファイナルは絶対勝ちたいと思っていたんです。

最後まで立っていよう
演技の時は、膝の内側が痛くて、足が曲がらない状態でした。今思うとよく滑れたなと思います。転んでも、ジャンプを回り切れば得点はもらえる。3回転ジャンプを回りさえすれば2点、3点はもらえるから絶対回ろうと。本当は立っているのも大変だったのですが、なぜか気持ちだけは「4回転だって跳べる」と思っていました。無事に滑り終えることができた時は、やりきった、という気持ちでした。キスアンドクライではとにかくほっとして…涙が止まりませんでした。
リハビリ、そして再びリンクへ
事故の後、羽生選手はリハビリのためしばらく休養を取ることになります。しかし衝突のダメージは思っている以上に大きいものでした。思うように体が動かずに苦しんだ日々を語っていただきました。
もう滑れないかもしれない
あの試合の後、お医者さんからは1週間で歩けるようになると言われていたのですが、実際は10日間ぐらい歩けませんでした。小走りができるようになって、リンクに乗ってみたのですが、痛みが強くてとても滑れませんでした。それまでにも怪我をしたことはありましたが、あんなに痛かったことはなくて…もう滑れないかもしれないと本気で思いました。スケートをやめようと思うくらい、気持ちも落ち込んでいました。
母の言葉に感謝しています
生まれて初めて母に、「もう滑れない」と弱音を吐きました。それに対して、母の反応は意外なものでした。「とにかくやってみたら?」と。小さい頃から、僕がやめたいと言うといつも「やめれば?」と言っていたのに…。「リハビリのつもりで、氷の上で毎日ちょっとだけ滑っていたら、そのうちに状況が好転していくかもしれないよ」と言われて。そうしたらなぜか急に元気が出て、滑れるような気がしたんです。さらに「次のNHK杯で絶対優勝する!」という気力も湧いてきました。 今、事故のことを振り返ってみて、もしあの時、試合を棄権していたら、そして母の一言がなかったら、今の自分はなかったかもしれない。あの時の母の言葉に、改めて感謝しています。


「フィギィアが教えてくれたこと」をテーマに羽生選手がこれまでの体験を通し感じたことを全3回に渡りお届けします。第1回目は、羽生選手の人生においてフィギュアがどんな存在なのかを解き明かしていきます。インタビューの中で明かしてくれた意外な一面やとっておきのエピソードもご紹介します。
4歳から今まで、多くの時間をフィギュアスケートと共に歩んできた羽生選手。人生においてフィギュアから学んだことは、きっと数え切れないほどあることでしょう。 今回から始まる新テーマでは、羽生選手がこれまでの体験を通じて感じたさまざまな事柄について、全3回にわたってお届けします。1回目となる今回は、羽生選手の人生においてフィギュアがどんな存在なのかを解き明かしていきます。また、インタビューの中で明かしてくれた意外な一面やとっておきのエピソードをコラムでご紹介します。ぜひ、最後までお見逃しなく、お楽しみください。

自分をコントロールすること
滑る楽しさ、表現する喜び、多くの人からの声援…フィギュアスケートはたくさんの喜びをくれるスポーツです。同時に、練習の過酷さや試合の厳しさ、怪我などさまざまな困難も合わせ持っています。きっと羽生選手は、フィギュアの楽しさと大変さ、どちらもたくさん経験していることでしょう。フィギュアを通じて羽生選手が学んだ大切なことについて答えてもらいました。
自分が相手だから、負けられない
フィギュアは、野球やサッカーやテニスのような対人競技ではないから、すべては自分次第です。もちろん相手の調子が悪かったせいでたまたま勝ててしまうことは稀にありますが、ジャンプが成功する、演技がミスなくできるかは自分の問題です。むしろ自分を相手にする戦いだからこそ、負けられないと思っています。テクニックや表現力、集中力などは練習やコーチのアドバイスで高めていくことができますが、イザという時にその力を出せるかどうかが一番重要だと思っています。集中力やモチベーションをどれだけ保てるか、プレッシャーをどれだけ力に変えられるか…結局は精神面で自分自身をコントロールできる強さを持った人が勝つのだと思います。

無駄だったことは、一つもない
試合前に緊張したり、不安になったりすることもあります。でもそれは、それだけ本気だという証拠。うまくいきたいって思っていなかったら、緊張もしないし不安にもならないですから。ネガティブな気持ちも、どうしてそんな気持ちになったんだろう、って考えられたら、プラスに変えていけると思います。そう考えると、フィギュアを通じて経験したことで、無駄だったことって一つもないと思っているんです。もちろん胸を張れることばかりではありませんが、いろんな経験をしていろんな感情を知っていれば、それを表現に変えられるかもしれない。怒りとか悔しさが、力強いジャンプにつながるかもしれない。だから、ネガティブな感情からも逃げずに、一つ一つの経験を大切にしていきたいなと思っています。
母のおかげで強くいられる
精神面をコントロールするために、身体のコンディションをベストに保つことも大切です。トレーニングのペースや量は日々自分で考えて調整していますが、身の周りのことはほとんど母がやってくれています。毎日、些細な体調の変化に気づいてくれて、バランスの良い食事を考えてくれるので有難いです。カナダでは、母と話すことも精神的にプラスになっています。母は僕を心配していろいろ言ってくれるのですが、僕がつい反論してしまうこともあります。よくある親子のやりとりだと思いますが、海外にいると母国語で話すだけで安心できるし元気になれます。母の存在は、身体的にも精神的にも支えになっています。

僕にとってフィギュアとは
自分をコントロールすることや精神的な強さなど、大切なことを羽生選手に教えてくれたフィギュア。羽生選手の人生にとって、フィギュアはどんな存在なのか、改めてお伺いしました。
すべてじゃないけど、とても大切
以前は、フィギュアは生活そのものだった気がします。でも震災やいろいろな経験を通して、生活は生活、フィギュアはフュギュアであってイコールではないと思うようになりました。「フィギュアがなくなったら、何もなくなってしまう」ということでは困るので、意識的に切り離そうとしているのかもしれません。でもフィギュアは、羽生結弦という人間を形成している軸であることは確かだから、人生の重要な一部であることは間違いありません。
フィギュアを通じて、人生を経験している
フィギュアは、努力の大切さや諦めない強さなどポジティブなことも教えてくれましたし、自分の弱さや過信など、ネガティブな面にも気づかせてもらいました。そこから学んだ多くのことは、僕の考え方や普段の言動、社会生活に影響を与えているのは事実です。でも、実はすべてが正しいとは思っていなくて…何をどう受け入れるかは自分の選択次第なのだと思っています。僕とフィギュアの関係は、学ぶというよりも「フィギュアを通して、人生のいろいろなことを経験させてもらっている」そういう感覚が一番近いです。
\ここだけの、インタビューこ/
ぼれ話

羽生選手がもし、フィギュア以外のスポーツをやるとしたら?そんな質問をしてみたところ、意外なスポーツを挙げてくれました。
いつか弓道をやってみたい
フィギュア以外にやりたいのは弓道です。僕は短時間に集中することが得意なタイプなので、ずっと前から弓道をやってみたいと思っているんです。12月生まれの射手座で、結弦という名前ともリンクして親近感が湧いています。フィギュアと違って、静止してやるスポーツという点にも興味があります。一時期はテニスにも興味があったのですが、テニスは暑い夏でも屋外でやる競技なので、インドア派の僕には向いてないなって、すぐあきらめました(笑)。


第2回目は、アスリートとして、そして一人の人間として羽生選手を育て、支えてこられたご家族について語っていただきました。また、その中で明かしてくれた意外な一面やとっておきのエピソードをコラムでご紹介します。ぜひ、最後までお見逃しなく、お楽しみください。
“フィギュアを続けてこられたのは家族のおかげ”と常に感謝の想いを口にしている羽生選手。フィギュアで得られた大きな財産の一つは「家族の絆」かもしれません。 「フィギュアが教えてくれたこと」第2回目の今回は、アスリートとして、そして一人の人間として羽生選手を育て、支えてこられたご家族について語っていただきました。また、インタビューの中で明かしてくれた意外な一面やとっておきのエピソードをコラムでご紹介します。ぜひ、最後までお見逃しなく、お楽しみください。

羽生家の一員として
世界No.1フィギュアスケーター。21歳の大学生。さまざまな顔を持つ羽生選手ですが、原点はやはり“羽生家の末っ子”のようです。羽生選手にとって、ご家族とはどんな存在なのでしょうか。
「羽生家の結弦」でいられる幸せ
小学生の頃からスケートでも生活でも、献身的にサポートしてくれた家族には感謝してもしきれません。特に両親は「どんなにスケートが好きでも、スケート以外の世界も知っていてほしい」という方針で育ててくれました。それは成人しても、金メダルをとっても変わりません。だから両親と姉にとっての僕は、昔も今も相変わらず羽生家の長男であり、末っ子だと思います。僕も“この両親の息子”でありたいと思っているし、それが幸せだなって常々感じています。

家族の言葉が力になる
家族の有り難みを特に実感するのは、悩んでいる時です。すべきことはわかっているけど、なかなか行動できずにいる。そんな時に家族の一言やアドバイスがスイッチとなり、それがきっかけで好転していくことも多いです。特に、いつも身近にいる母の一言は特別です。僕だけじゃなく他の人にも言えることだと思うのですが、母親って、何ヶ月もお腹の中で大事にしてくれて、大変な思いをして生んでくれて、言葉も話せない赤ん坊の頃からずっと一緒にいてくれたからこそ、わかることがあるのだと思います。その言葉も想いも重くて、まっすぐに深く響きます。
家族一人一人への想い
羽生選手のご家族は、一体どんな方たちなのでしょうか。お父様、お母様、そしてお姉様の一人一人について、羽生選手にとってどんな存在なのか、特別に語っていただきました。家族の時間の過ごし方など、羽生家の日常の姿にも迫ります。
全員、性格が違って個性的です
羽生家は家族4人とも血液型が違うんです。そのせいか、みんな性格がバラバラで個性的。普段のやりとりでも、たいがいは気の強い僕と、母の間で他愛ない口ゲンカが始まり、真面目な姉がいつものように「まあまあ」と仲裁に入ってきて、父が「今日はどちらの味方をしてこの状況を収めようか」と様子を見ている、そんなパターンが多いです(笑)。性格が全然違うからお互いを認め合えるし、まとまりやすい。バラバラなようで、とてもバランスがとれている一家だと思います。
羽生家を見守る大黒柱、父
父は仕事で仙台にいるので、普段は一緒にいるわけではないのですが、常に決まったところに「どーん」と構えている、そんな重みのある存在です。精神的な柱のように家族を支えてくれています。昔はよく怒られたけど、今は見守って冷静にアドバイスしてくれます。
何でも言える、 言わなくてもわかってくれる母
母は一番多く一緒にいて、何でも言える存在です。良いことも悪いことも、母には思ったことを素直に口に出してしまいます。心配をかけるから言わないこともあるのですが、母にはわかってしまいますね。最近では僕を叱るのは母の役割です。

対等だけど やっぱり「お姉ちゃん」な姉
姉は優しさと愛情があって、いつも僕の立場になって一緒に考えてくれます。姉だからこそ、父や母とは違った視点で理解してくれることもあるし。子供同士として、父や母に対する気持ちもわかり合えます。僕と姉の関係は、4歳の頃と基本的には変わらない。今でも甘えさせてくれる「お姉ちゃん」です。
家族の前では「素」でいられる
シーズン中は僕と母はカナダにいるので、家族4人でいられる時間は少なくなりました。その分実家で過ごす時間を楽しみにしています。久々に実家に帰ると、父も姉も僕をまるで小さい子供のように可愛がってくれる。スケートの話もあまりせず、みんなでテレビの話題で盛り上がったり、ゲームを楽しんだりしています。時々口ゲンカもします(笑)。実家は僕が“素”に戻れる場所。とても心地よいです。

\ここだけの、インタビューこ/
ぼれ話

21歳の羽生選手。ご家族と一緒にお酒を飲まれることはあるのでしょうか?
初めてのお酒は「男同士」で
20歳になって仙台に帰った時、成人式のお祝いで祖父と従兄弟と一緒に初めてお酒を飲みました。後から父も仲間に入ってみんなで飲んだのですが、ろれつが回らなくなりました。日本酒はおいしかったけど、体質的にあまり向いていないかもしれないと思いました。アスリートとしては、お酒が飲めなくてちょうど良かったです(笑)。