石破茂战后80年首相个人见解全文
兵库县の小鸟
2025年10月10日 18:55
收录于文集
共2篇
日本首相石破茂

题注:与日本战后50年、60年、70年谈话不同,此次谈话并未通过内阁决议,仅以石破茂首相个人名义发表。


献给战后八十周年

(前言)

自那场大战结束以来,八十年过去了。

在这八十年中,我国始终如一地作为和平国家迈进,为世界的和平与繁荣竭尽全力。今日我国的和平与繁荣,是建立在以战殁者为代表的各位的宝贵生命和苦难历史之上的。

我通过三月访问硫磺岛、四月访问菲律宾卡利拉亚的菲岛战殁者之碑、六月出席冲绳全体战殁者追悼仪式并访问姬百合和平祈念资料馆、八月出席广岛和长崎的原子弹死难者·牺牲者慰灵仪式以及终战纪念日的全国战殁者追悼仪式,再次誓言将那场大战的反省与教训深深地铭刻在心。

此前,在战后五十年、六十年、七十年的节点上,内阁总理大臣都发表了谈话,我对历代内阁关于历史认识的立场也予以继承。

过去三次谈话中,对于为何未能避免那场战争这一点,着墨不多。即使在战后七十年谈话中,也有一段提到日本“试图以武力解决外交和经济上的僵局。国内的政治系统未能起到遏制作用”,但并未对此进行更详细的讨论。

国内的政治系统为何未能起到遏制作用?

在经历了第一次世界大战,世界进入总体战的时代背景下,根据开战前内阁设立的“总体战研究所”和陆军省设立的所谓“秋丸机关”等机构的预测,战败是必然的。许多有识之士也感受到了战争推行的困难。

政府和军部的首脑们在认识到这一点的情况下,为什么没能做出回避战争的决断,反而贸然推进了战争,导致国内外无数无辜生命的牺牲?在曾任总理的米内光政指出“请注意不要为了避免‘慢性贫困’(ジリ貧)而陷入‘突发性贫困’(ドカ貧)”的情况下,为什么没能对大路线进行修正?

在战后八十周年这个节点,我想与国民们一同思考。

 


(日本帝国宪法的问题点)

首先,可以提出当时的制度问题。战前的日本,缺乏将政治和军事适当地整合起来的机制。

在大日本帝国宪法下,指挥军队的权力——统帅权——被视为独立,制度上不存在“文民统治”原则,即在政治与军事关系中,政治(即文职人员)必须始终居于优势地位。

内阁总理大臣的权限也有限。在帝国宪法下,包括内阁总理大臣在内的各国务大臣地位平等,总理大臣虽被视为内阁首脑,但在制度上并未被赋予统率内阁的指挥命令权限。

尽管如此,直到日俄战争前后,元老一直在发挥整合外交、军事和财政的作用。这些曾是武士并有军事经验的元老们,在充分理解军事的基础上,能够对其进行控制。借用丸山真男的话说,“元老、重臣等超宪法性存在的媒介”在国家意志的一元化中发挥了重要作用。

随着元老们相继去世,这种非正式的机制衰落后,在大正民主时期,政党试图整合政治和军事。

第一次世界大战给世界带来了巨大变动,日本成为了国际协调的主要承担者之一,并成为国际联盟的常任理事国。如币原外交所体现的,1920年代的政府政策抑制了帝国主义的扩张。

在1920年代,舆论对军队持严厉态度,政党主张大规模裁军。军人感到抬不起头,对这种态度的反弹,被认为是昭和时期军部崛起的背景之一。

传统上,统帅权仅限于与作战指挥相关的军令,而与预算和体制整備相关的军政,则被解释和运用为内阁成员国务大臣的辅弼(hòubì,辅助)事项。我认为,元老,接着是政党,通过实际运作弥补了制度上缺乏文民统治的问题。

 

(政府的问题)

然而,统帅权的含义逐渐被扩大解释,统帅权的独立被军部利用,作为排除政府和议会对军队政策和预算进行干预和控制的手段。

在政党内阁时代,政党之间为了夺取政权而进行揭露丑闻的恶性竞争,导致政党失去了国民的信任。1930年,在围绕《伦敦海军裁军条约》批准的争议中,在野党立宪政友会为了动摇立宪民政党内阁,与海军的一部分联手,声称批准条约是“干犯统帅权”,对政府进行了猛烈攻击。政府最终勉强批准了该条约。

然而,1935年,宪法学者、贵族院议员美浓部达吉的天皇机关说,被立宪政友会作为攻击政府的材料而遭到谴责,并演变成牵涉军部的政治问题。当时的冈田启介内阁试图在政治上与此问题保持距离,声称“学说上的问题,除了委托给学者别无他法”,但最终屈服于军部的要求,两次发表了否定天皇机关说(该学说当时是通说立场)的国体明徴声明,并查禁了美浓部的著作。

就这样,政府逐渐失去了对军部的控制。

 

(议会的问题)

原本应该对军队实行控制的议会,也失去了其功能。

最典型的例子是斋藤隆夫众议院议员的除名问题。斋藤议员在1940年2月2日的众议院全体会议上,批判了战争的泥潭化,并就战争目的对政府进行了严厉追究。这就是所谓的反军演说。陆军对此表示强烈反对,认为演说侮辱了陆军,要求斋藤议员辞职。许多议员对此表示赞同,斋藤议员以赞成296票、反对7票的压倒性多数被除名。这是议会中少数试图履行议员职责的例子,但当时的议事记录至今仍有三分之二被删除。

在对军方控制功能极为重要的预算审议中,当时的议会也完全谈不上发挥了对军方的监督功能。1937年以后设立了临时军事费特别会计,1942年至1945年间,几乎所有军费都列入特别会计。在审议该特别会计时,预算书中没有细目,众议院和贵族院基本上都以秘密会议的形式进行审议,审议时间也极其短暂,完全不配称之为审议。

即使在战况恶化、财政紧张的情况下,陆军和海军仍为了组织利益和颜面,在预算争夺上展开了激烈的竞争。

此外,不容忽视的是,在大正后期到昭和初期,15年间有3位在任首相在内的多位政治家被国粹主义者或青年军官暗杀。被暗杀的都是重视国际协调、试图通过政治控制军队的政治家。

毋庸置疑,包括五·一五事件和二·二六事件在内的这些事件,极大地阻碍了包括议会和政府相关人员在内的文职人员自由讨论和行动来控制军队政策和预算的环境。

 

(媒体的问题)

另一个不应轻视的问题是媒体问题。

1920年代,媒体对日本的对外扩张持批判态度,记者时代的石桥湛山曾主张放弃殖民地。然而,自满洲事变发生以来,媒体的论调转变为积极支持战争。这是因为战争报道“畅销”,各报纸的发行量大幅增加。

以1929年美国大萧条为契机,欧美经济受到重创,为保护国内经济而采取了高关税政策,导致日本的出口遭受巨大打击。

在严重不景气的背景之一推动下,民族主义高涨,德国纳粹党和意大利法西斯党崛起。在主要国家中,似乎只有苏联在发展,在思想界也弥漫着自由主义、民主主义、资本主义时代已终结、英美时代已终结的论调,形成了接受极权主义和国家社会主义的土壤。

在这种情况下,关东军的一部分发动了满洲事变,仅用了一年半左右的时间就占领了日本本土数倍的土地。报纸对此进行了大肆报道,许多国民被迷惑,民族主义进一步高涨。

尽管也存在一些尖锐的批评,例如吉野作造批评满洲事变中军部的行动,清泽洌严厉批评松冈洋右退出国际联盟,但在1937年秋季以后,随着言论管制的加强,对政策的批评被封杀,只有积极支持战争的论调才被传达给国民。

 


(结论)

正因如此,我们应该始终对历史保持谦卑,并将教训深深地铭刻在心

在自卫和威慑中,保持武力组织是极其重要的。我不能站在否定威慑论的立场。在当前的安全保障环境下,这是推行负责任的安全保障政策的现实。

同时,如果一个国家拥有无与伦比的力量的武力组织超越民主控制而暴走,民主主义是脆弱的,可能瞬间崩溃。另一方面,文职政治家也并非不会做出错误判断,走向战争。文民统治和适当的政军关系的必要性和重要性,无论如何强调都不为过。政府、议会、武力组织、媒体所有方面都必须时刻认识到这一点。

斋藤隆夫议员在反军演说中论述道,世界的历史是战争的历史,战争不是正义胜利,而是强者征服弱者,他主张基于现实主义的政策的重要性,认为不应忽视这一点而以“圣战”之美名掩盖而误了国家百年大计,结果被众议院除名。

次年的众议院防空法委员会上,陆军省表示,空袭时市民避难将导致战争继续意志的破产,并对此予以否定。

两者虽然是遥远的过去之事,但无不传达着放弃议会职责、精神主义横行以及轻视人命和人权的恐怖。不正面面对历史,就无法开创光明的未来。在我国处于战后最严峻和复杂的安全保障环境的当下,学习历史的重要性必须再次得到认识。

正因为现在拥有战争记忆的人数逐年减少,令人担忧记忆的风化,所以我相信,包括年轻一代在内的每一位国民都能主动思考那场大战与和平应有的状态,并将其应用于未来,从而进一步巩固和平国家的基石。

我将与全体国民一道,吸取那场大战的各种教训,尽我所能,努力不让那样的惨祸再次发生。


以下为日语原文:

戦後80年に寄せて

 (はじめに)

 先の大戦の終結から、80年が経(た)ちました。

 この80年間、我が国は一貫して、平和国家として歩み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者を始めとする皆様の尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。

 私は、3月の硫黄島訪問、4月のフィリピン・カリラヤの比島戦没者の碑訪問、6月の沖縄全戦没者追悼式出席及びひめゆり平和祈念資料館訪問、8月の広島、長崎における原爆死没者・犠牲者慰霊式出席、終戦記念日の全国戦没者追悼式出席を通じて、先の大戦の反省と教訓を、改めて深く胸に刻むことを誓いました。

 これまで戦後50年、60年、70年の節目に内閣総理大臣談話が発出されており、歴史認識に関する歴代内閣の立場については、私もこれを引き継いでいます。

過去三度の談話においては、なぜあの戦争を避けることができなかったのかという点にはあまり触れられておりません。戦後70年談話においても、日本は「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」という一節がありますが、それ以上の詳細は論じられておりません。

 国内の政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか。

 第一次世界大戦を経て、世界が総力戦の時代に入っていた中にあって、開戦前に内閣が設置した「総力戦研究所」や陸軍省が設置したいわゆる「秋丸機関」等の予測によれば、敗戦は必然でした。多くの識者も戦争遂行の困難さを感じていました。

 政府及び軍部の首脳陣もそれを認識しながら、どうして戦争を回避するという決断ができないまま、無謀な戦争に突き進み、国内外の多くの無辜(むこ)の命を犠牲とする結果となってしまったのか。米内光政元総理の「ジリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう注意願いたい」との指摘もあった中、なぜ、大きな路線の見直しができなかったのか。

 戦後80年の節目に、国民の皆様とともに考えたいと思います。

 (大日本帝国憲法の問題点)

 まず、当時の制度上の問題が挙げられます。戦前の日本には、政治と軍事を適切に統合する仕組みがありませんでした。

 大日本帝国憲法の下では、軍隊を指揮する権限である統帥権は独立したものとされ、政治と軍事の関係において、常に政治すなわち文民が優位でなくてはならないという「文民統制」の原則が、制度上存在しなかったのです。

内閣総理大臣の権限も限られたものでした。帝国憲法下では、内閣総理大臣を含む各国務大臣は対等な関係とされ、内閣総理大臣は首班とされつつも、内閣を統率するための指揮命令権限は制度上与えられていませんでした。

 それでも、日露战争の頃までは、元老が、外交、軍事、財政を統合する役割を果たしていました。武士として軍事に従事した経歴を持つ元老たちは、軍事をよく理解した上で、これをコントロールすることができました。丸山眞男の言葉を借りれば、「元老・重臣など超憲法的存在の媒介」が、国家意思の一元化において重要な役割を果たしていました。

 元老が次第に世を去り、そうした非公式の仕組みが衰えたのちには、大正デモクラシーの下、政党が政治と軍事の統合を試みました。

 第一次世界大戦によって世界に大きな変動が起こる中、日本は国際協調の主要な担い手の一つとなり、国際連盟では常任理事国となりました。1920年代の政府の政策は、幣原外交に表れたように、帝国主義的膨張は抑制されていました。

 1920年代には、世論は軍に対して厳しく、政党は大規模な軍縮を主張していました。軍人は肩身の狭い思いをし、これに対する反発が、昭和期の軍部の台頭の背景の一つであったとされています。

 従来、統帥権は作戦指揮に関わる軍令に限られ、予算や体制整備に関わる軍政については、内閣の一員たる国務大臣の輔弼(ほひつ)事項として解釈運用されていました。文民統制の不在という制度上の問題を、元老、次に政党が、いわば運用によってカバーしていたものと考えます。

 

 (政府の問題)

 しかし、次第に統帥権の意味が拡大解釈され、統帥権の独立が、軍の政策全般や予算に対する政府及び議会の関与・統制を排除するための手段として、軍部によって利用されるようになっていきました。

 政党内閣の時代、政党の間で、政権獲得のためにスキャンダル暴露合戦が行われ、政党は国民の信頼を失っていきました。1930年には、野党・立憲政友会は立憲民政党内閣を揺さぶるため、海軍の一部と手を組み、ロンドン海軍軍縮条約の批准を巡って、統帥権干犯であると主張し、政府を激しく攻撃しました。政府は、ロンドン海軍軍縮条約をかろうじて批准するに至りました。

 しかし、1935年、憲法学者で貴族院議員の美濃部達吉の天皇機関説について、立憲政友会が政府攻撃の材料としてこれを非難し、軍部も巻き込む政治問題に発展しました。ときの岡田啓介内閣は、学説上の問題は、「学者に委ねるより外仕方がない」として本問題から政治的に距離を置こうとしましたが、最終的には軍部の要求に屈して、従来通説的な立場とされていた天皇機関説を 否定する国体明徴声明を二度にわたって発出し、美濃部の著作は発禁処分となりました。

 このようにして、政府は軍部に対する統制を失っていきます。

 

 (議会の問題)

 本来は軍に対する統制を果たすべき議会も、その機能を失っていきます。

 その最たる例が、斎藤隆夫衆議院議員の除名問題でした。斎藤議員は1940年2月2日の衆議院本会議において、戦争の泥沼化を批判し、戦争の目的について政府を厳しく追及しました。いわゆる反軍演説です。陸軍は、演説は陸軍を侮辱するものだとこれに激しく反発し、斎藤議員の辞職を要求、これに多くの議員は同調し、賛成296票、反対7票の圧倒的多数で斎藤議員は除名されました。これは議会の中で議員としての役割を果たそうとした稀有(けう)な例でしたが、当時の議事録は今もその3分の2が削除されたままとなっています。

 議会による軍への統制機能として極めて重要な予算審議においても、当時の議会は軍に対するチェック機能を果たしていたとは全く言い難い状況でした。1937年以降、臨時軍事費特別会計が設置され、1942年から45年にかけては、軍事費のほぼ全てが特別会計に計上されました。その特別会計の審議に当たって予算書に内訳は示されず、衆議院・貴族院とも基本的に秘密会で審議が行われ、審議時間も極めて短く、およそ審議という名に値するものではありませんでした。

 戦況が悪化し、財政がひっ迫する中にあっても、陸軍と海軍は組織の利益と面子(めんつ)をかけ、予算獲得をめぐり激しく争いました。

 加えて、大正後期から昭和初期にかけて、15年間に現役首相3人を含む多くの政治家が国粋主義者や青年将校らによって暗殺されていることを忘れてはなりません。暗殺されたのはいずれも国際協調を重視し、政治によって軍を統制しようとした政治家たちでした。

 五・一五事件や二・二六事件を含むこれらの事件が、その後、議会や政府関係者を含む文民が軍の政策や予算について自由に議論し行動する環境を大きく阻害したことは言うまでもありません。

 

(メディアの問題)

 もう一つ、軽視してはならないのはメディアの問題です。

 1920年代、メディアは日本の対外膨張に批判的であり、ジャーナリスト時代の石橋湛山は、植民地を放棄すべきとの論陣を張りました。しかし、満州事変が起こった頃から、メディアの論調は、積極的な戦争支持に変わりました。戦争報道が「売れた」からであり、新聞各紙は大きく発行部数を伸ばしました。

 1929年の米国の大恐慌を契機として、欧米の経済は大きく傷つき、国内経済保護を理由に高関税政策をとったため、日本の輸出は大きな打撃を受けました。

 深刻な不況を背景の一つとして、ナショナリズムが高揚し、ドイツではナチスが、イタリアではファシスト党が台頭しました。主要国の中でソ連のみが発展しているように見え、思想界においても、自由主義、民主主義、資本主義の時代は終わった、米英の時代は終わったとする論調が広がり、全体主義や国家社会主義を受け入れる土壌が形成されていきました。

 こうした状況において、関東軍の一部が満州事変を起こし、わずか1年半ほどで日本本土の数倍の土地を占領しました。新聞はこれを大々的に報道し、多くの国民はこれに幻惑され、ナショナリズムは更に高まりました。

 日本外交について、吉野作造は満州事変における軍部の動きを批判し、清沢洌は松岡洋右による国際連盟からの脱退を厳しく批判するなど、一部鋭い批判もありましたが、その後、1937年秋頃から、言論統制の強化により政策への批判は封じられ、戦争を積極的に支持する論調のみが国民に伝えられるようになりました。

 だからこそ、我々は常に歴史の前に謙虚であるべきであり、教訓を深く胸に刻まなければなりません。

 自衛と抑止において実力組織を保持することは極めて重要です。私は抑止論を否定する立場には立ち得ません。現下の安全保障環境の下、それが責任ある安全保障政策を遂行する上での現実です。

 同時に、その国において比類ない力を有する実力組織が民主的統制を超えて暴走することがあれば、民主主義は一瞬にして崩壊し得る脆弱(ぜいじゃく)なものです。一方、文民たる政治家が判断を誤り、戦争に突き進んでいくことがないわけでもありません。文民統制、適切な政軍関係の必要性と重要性はいくら強調してもし過ぎることはありません。政府、議会、実力組織、メディアすべてがこれを常に認識しなければならないのです。

 斎藤隆夫議員は反軍演説において、世界の歴史は戦争の歴史である、正義が勝つのではなく強者が弱者を征服するのが戦争であると論じ、これを無視して聖戦の美名に隠れて国家百年の大計を誤ることがあってはならないとして、リアリズムに基づく政策の重要性を主張し、衆議院から除名されました。

 翌年の衆議院防空法委員会において、陸軍省は、空襲の際に市民が避難することは、戦争継続意思の破綻になると述べ、これを否定しました。

 どちらも遠い過去の出来事ではありますが、議会の責務の放棄、精神主義の横行や人命・人権軽視の恐ろしさを伝えて余りあるものがあります。歴史に正面から向き合うことなくして、明るい未来は拓(ひら)けません。歴史に学ぶ重要性は、我が国が戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に置かれている今こそ、再認識されなければなりません。

 戦争の記憶を持っている人々の数が年々少なくなり、記憶の風化が危ぶまれている今だからこそ、若い世代も含め、国民一人一人が先の大戦や平和のありようについて能動的に考え、将来に生かしていくことで、平和国家としての礎が一層強化されていくものと信じます。

 私は、国民の皆様とともに、先の大戦の様々な教訓を踏まえ、二度とあのような惨禍を繰り返すことのないよう、能(あた)う限りの努力をしてまいります。