番外·四藝説
多情的老狗
编辑于 2025年09月28日 17:47
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共43篇

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此《四艺说》为笔者此前分享的忠也派一刀流兵法目录​的作者鹈殿甚左卫门长快所著。该书如其名,论弓术、马术、剑术、枪术四艺。其十三岁师从忠也派一刀流小野半左卫门贞雄习剑,二十四岁获免许皆传,三十岁受一子相传之秘授。弓术习日置流,马术承近授派,枪术学于宝藏院流。《四艺说》为其获得一刀流免许四年后所作。但虽说作者是同一人但其内容与一刀流关联并不大,因此作为番外进行分享。


四藝の説自序

夫文武之不可偏廢也。譬如車有両輪、鳥有両翼也。輪不両車不行、翼不両鳥不飛。豈得廢其一哉。是故有武無文、則乱也。有文無武、則弱也。乱弱、豈士君子之所由哉。昔者、魯定公與斉侯会于夾谷。孔子攝相事而有武之備矣。蓋文武之極、唯在智仁勇之達德矣。故有勇無義者、君子之所悪也。雖有勇有義、不知用武之術、則又有暴虎馮河之譏。可不謹哉。欲知用武之術、観諸古人忠貞不易、消難敵愾、生而不幸、死而不悔、臨事而懼、好謀而成者、可以為法矣。然知其法、也、在師之導。故宜先擇良師焉。此乃君子所謂、鳥能擇木、木豈能擇烏者也。然其要則唯在於己身而已矣。能知三徳之不可失、夙夜遊於藝则、如人芝蘭之室、久而不聞其香、即與之化、而終徵乎徵、至於無形、神乎神、至於無聲也。嗚呼談武者、其知之乎。予好武道、而学之有年焉。而浅智短才、其術且固拙也。然發於一得之餘者、不可以已也。故以卑俗之言、識先覚之説、以為若干卷。豈敢傅之大方也哉。恃欲使吾童蒙知所淬勵而已。

 

文武之道不可偏废。就如同车需两轮、鸟需双翼一般。若车无双轮则不能行,鸟无双翼则不能飞,岂能舍弃其一?因此,有武无文则生乱,有文无武则致弱。动荡与软弱,岂是士君子所应走的道路?从前鲁定公与齐侯在夹谷会盟,孔子担任代理宰相,并设有武备。这说明文与武的极致,唯在于“智、仁、勇”这三种通达之德。所以,有勇而无义,是君子所厌恶的。即便兼具勇与义,若不知用武之术,也会招致赤手搏虎、徒步渡河的讥讽。岂可不谨慎对待!若想了解用武之术,当观古人:他们忠贞不渝、临危不惧,虽生不幸,却死而无悔;面对事变谨慎而能谋定后动。这样的人,才可为典范。然而知其法,还须依靠师长的引导。因此应当首先择选良师。这就如同君子所说:“鸟能择木,木岂能择鸟?”但归根结底,关键仍在于自身。若能深知三德不可丢失,朝夕不懈地在技艺中精进,如同置身于芝兰满室之中,久而不闻其香,亦与之同化,最终达到无形之境,神妙莫测、无声无迹的境界。唉!谈论武道之人,是否真正理解这些?我喜爱武道,学习已有多年,然而因才疏学浅,技艺仍然粗拙。即便如此,于偶得之间所得之理,亦不能不记述下来。因此便用浅显粗俗之语,记下先贤之说,成若干卷。哪敢奢望传之大雅之堂?只愿使我的弟子,得以知所砥砺精进而已。

 

弓術の説

 

凡射の道は、遠き神代のむかし、天の鹿子弓、天の羽羽矢を以て射そめしを、はじめとせしより、此道世につたへひろまりて、今の世にいたるまで、此道歴々たり。それが中にも鎌倉氏の時に至て、猶も盛にまねびならして、其柳営に精射を取行ひ、歩射、騎射等の興行あり。故に武士は此術をもて専務となせしなり。されば武に及ぶことをもて、弓箭に及ぶといひ、武士の自称にも、弓矢取身などいふも、其専務の術によれるなるべし。故に、武に用ゆるの器あまたありといへども、それが上に冠たるは、尤重んじ尊ぶの教也。太平の今に至りても、射は武道の長にして、士たる者必学ばずんばあるべからず。威を千里の外にふるひ、治を四海の内にしくこと、是射徳のたすけなり。されば本朝古へより、此術を以て天下を治め、形なき鬼神を感ぜしむることも、良射の徳なり。射を学ぶ者、正心誠意ならざれば、其域に至ることかたし。故に孔夫子示し給ふに、射は君子に似たることあり、正鵠を失へばかへって其身に求むと。これ君子己を修るに、敬を以てするのいひなるべし。是をもて、上代此道さかんなりし頃は、士といはるゝ者は、かりそめに出るにも、必弓箭を徒者に取もたすることにて、今の士常に鎗をもたするに異ならず。よりて、武をたしなむ人、その域に入者もすくなからず。とりわけ其奥を極め、此道を中興せし人は、日置弾正正次にぞありける。其人となり、射術を好み、遂に其術に熟で、其法の足ざるを補ひ、過を正し、後世に傳へ、其枝葉ますます盛なるによりて、今其流によらざるはなし。依て当世に至るまで、此人を称して、射術中興の祖と仰しこと、皆人のしる処なり。又古き文にいふ、抑正次が出身を尋るに、大和国の住人にして、数多の年此道を嗜み、修行の功終に至妙を得て、其強弱、審固、持満を詳にし、諸国に遊で後、紀州高野山に趣き、剃髪して瑠璃光威徳入道と号し、五十九歳にして卒と。又田中大心があらはす処の美人草に云。日置京都におゐて、葛輪といふ弓の上手と勝負をあらそひ、日置勝て名人の名を得たりと。又関六蔵傳にも、何の国内野合戰に、日置殿の矢先にたまる者なし。矢だね尽たりし故に、土居隠にかくれ、敵襲ひ来れば、出てたゞ弦打して大聲にゑひといふ。敵其聲を聞て迯散とも見へたり。予其流を学で、此道を嗜こと年あり。竊に此術を按ずるに、内志正しく外體直くして、強弱·審固·持満を詳にせむことを専ら心懸べし。強に弱あり、弱に強あり。其強なる処をやはらげ、弱なる処を強になさむことを修行して、強弱互に備る時は、おのづから身体弓の中に入て、其術熟すべし。唯大引するのみを、弓の中に入とはいひがたし。当世の射手を見るに、小引なれども弓の中に入て射る者と、大引にても弓の外にありて射る者とあり。

 

凡射箭之道,起源极其久远,追溯到遥远的神话时代。那时,使用“天之鹿子弓”与“天之羽羽矢”首次施射,被视为射道之始。自此以后,此道逐渐传遍世间,延续至今,历经变迁,历历在目。尤其在镰仓幕府时期,射术更加盛行,士人们专心研习,幕府亦在营中举行精密的射艺训练,推动步射、骑射等技艺之演练。因此,武士视此术为专务之职。故而,凡涉武事,必是弓矢;武士自称弓矢之身,此乃武人的核心技艺。因此,虽用于武事的兵器众多,而弓箭则位居诸兵之首,最受重视与尊崇。即便是今日太平盛世,射艺仍为武道之首,凡士人不可不学。其威慑远达千里之外,治理之效遍及四海,此皆为射术德业之助。自古以来,便以射术治理天下,甚至可感动无形的鬼神,这亦是良射之德的体现。若学射之人,心不正、意不诚,则难以入其境界。因此孔子亦言:“射近于君子之道。”若射失正鹄,便反求诸己。此正为君子修身以敬之意。从前射道盛行之时,凡被称为“士”的人,即使临时外出,也必定随身携带弓箭,步行者亦不例外。这就如同现今武士常带长枪一般。因此,爱好武艺之人,能入其境者亦不少。尤其有一人最为杰出,堪称复兴此道者,即日置弹正正次。他为人好射术,深入研习,最终精熟于此道,补足前法之不足,纠正错误,传承于后世,枝叶繁茂,后人多属其流。自古至今,无人不推崇他为射术复兴之祖。又有古文记载,关于正次的出身,据称他是大和国人,修习此道多年,因长年修行,最终获得至妙之境。对射术中的“强弱”、“审固”(稳定)与“持满”(会)皆深有体会。在遍历诸国之后,他赴纪州高野山出家,剃发为僧,法号为瑠璃光威德入道,卒于五十九岁。又据田中大心所著《美人草》一书中记载:正次在京都与一名叫葛轮的弓术高手比试,日置胜出,因而获得“名人”之誉。又据《关六藏传》记载,某次在国内某场野战中,敌人无一人能挡住日置大人的箭。箭矢用尽时,他便藏于土丘之后,敌军进逼时,他跳出,仅击弦一声并大喝“咿!”一声,敌军闻声而惊,四散而逃。我亦学习其流派,研习此道已有多年。私下考察此术,体会到应当内志端正、外形端直,专心致志地研习“强弱”“审固”“持满”等技艺要点。强中有弱,弱中有强。修行的关键在于,柔化强处、增强弱处,令强弱兼备。此时,身体自会融入弓中,技艺也就自然纯熟。单纯地将弓拉满,并不能称作“入于弓中”。观当世的射手,有人虽不拉满弦,却已“入于弓中”;亦有人虽满弦,却仍“在弓之外”。

 

愚歌に、

  弓の中に いらば弓をもいらるべし

    外なればこそ 弓に射らるれ

 

愚歌曰:

若在弓中便不会被弓所伤; 而身在其外才会被弓射中。

 

其小引の者も、弓の中に入ことは、強弱備るゆえなり。大引といへども、弓の外にあるは強弱備はらず。審固ならざるゆへなり。故に強弱審固をもて一心の修行となさば、自ら弓の中に入て、終に持満の彀も熟すべし。やつがれ元来難弓に生れて、所謂六つの要所に疎し。故に強を増し、身力となし、弱をまして、たるみをなす。ゆへに常の修行空しく、弓外にして早気となり、或は遅気となりて、百の曲出ざることなし。今心を尽して六つの要所を考へ、弓の中にいらんことを欲すといへども、特に難弓のみにあらず。精気も亦柔弱にして、弓外に労することをまぬがれず。弓道初学の者心掛度三ケ条、左に記す。

 

即便是未拉满弦之人,若能进入“弓之中”,也是因为兼备了“强”与“弱”的缘故。即使是满弦之人,若仍处于“弓之外”,也无法具备强与弱,这是由于其“审固”不周所致。因此,若以强弱与审固作为专心修行的核心,自然可以进入弓之中,最终熟练掌握持满之彀。鄙人一开始不能熟练的使用弓术,对于所谓的“六之要所”一向疏忽。因此,在强处便过度用力,变成单凭体力施为;在弱处则更显松散而下垂。于是常年修行徒劳无功,始终游离于弓之外,或过快,或过慢,百般恶习,无一不现。如今虽竭尽心思,欲专心考察这“六要”,希望能够将自己进入弓之中,问题并不只外在,如果精神与气力也柔弱不坚,终究难以避免劳神于“弓之外”。对于弓道初学之人,值得铭记于心的三条要点,列于下方。

 

〇みだりに射て数を懸んよりは、矢数少くとも、一矢ごとに心を用ゆべし。

心なくはなちて曲をいだすより

七所ごとに念をいるべし

 

与其胡乱射箭、只顾追求数量,不如箭数不多但每一箭都用心去射。

与其无心地放箭而生出坏习惯,

倒不如专注在七个关键之处。

 

〇早く射て、念なくあてんよりは、たもち射て、はづるゝ処を味ひさぐるべし。

早く射て中るはわずか其矢きり

持てはづれをさぐりつゝ射よ

 

比起匆忙射出、心不在焉地射中了目标,倒不如引满而射,体会射偏之处的原因。

匆忙射出而中不过是偶然一箭; 当引满而射,在射偏中不断探寻。

 

〇はづれを偽り、分附を白くなさんよりは、いつはりなく分附をぬりて、心を白くすべし。

ぬけた矢も中りとなさむ人ごゝろ

こらえて外にあらはすぞよき

 

比起掩饰射偏而将箭靶被命中的地方涂白,不如不加虚伪地涂上箭靶,而使自己的内心洁白。

把射偏的箭也当作命中,是人的虚妄; 应克制这种心态,将真相如实地显现于外,才是可贵之处。

 

馬術の説

 

凡馭の道は、唐土には黄帝の時に起り、我朝にては天武天皇の御宇にはじまりてよりこのかた、此道を傳へ学ぶ事たえず。その中、往々乗馬の道に達し、妙域にいれるもの少なからず。人々是を受継て、其法格を失なはざりしに、京都将軍家の末、天下大に乱れ、諸家各家傅も亡ひ、僅に残れる者は、小笠原家の馬術のみにして、其後諸家みなこれに依る。それが中に、大坪慶秀は諸士に抜んでて精妙を得、又八条江州は微妙を悟れり。故に其徒各一家の法を建、是以て後世馬術といふ者、恐らくは大坪·八條の二子に外ならず。諸流是より分る。されば、当世に至るまで、此二子を称して、馬術中興の祖と仰ぐこと、よく人の知る處なり。唐土のいにしへ、王良·造父等、御に名あるものあまたありといへども、後世騎馬の法と異なり。本邦の尊ぶ処は、乗の法を専らとし、武事に用ひて其功少からず。故に唐にも、後世是に乗馬の法を製して、騎馬も亦行はる。然ども、いまだ名誉ある者をきかず。されば馭法の徳は、万里に横行すべき神速活潑·自由自在の妙術にして、武門に生るゝ者は、治となく乱となく、君に朝し勤に服する道路の往来、馬にまたがり、是を安んじて席上に座するが如く、公位にも乗るとのらざると其尊卑を分つの禮ありて、専ら学ぶベきこと也。是以て古人の詞にも、弓馬は武士の左右といひ、又車の両輪といふも宜なり。竊に按ずるに、馬は陽獣にして、生得値なるものなり。故に馭者の気性を知ること甚だはやし。然るを馭者、其馬の邪正の気をしらずして、己が邪気を専らにして、却て馬の直心を懲し、邪気をまして、馬の口を傷り、足を労らすを以て、馭法と思ふこそ浅間しきことなり。かゝる徒は、馬を乗るにあらず、馬に乗せらるゝといふ者なり。馭の道はまづ己が心を正くして、乗べき馬の邪正の気を察し、其上にて乗べし。扨其術は、馬の直を助け、邪気を懲して、馭者と馬との気通ずる時は、其馬の馭者に隨ふこと、己が手足を動かすに異ならず。されば馭法は、己正心誠意にして、よく馬の気性をしるを肝要とす。是を知る時は、馬によりて、上気にて乗べきもあり、或は下気、又は左を取込、或は右を入るの類、不計して其馬の得手に應ずること、何ぞ難からんや。是以て其馬も拍子を踏、又は上足·躍足·乱足といふやうに、其馬の長ずる処に依て、七段の足を出すべし。

 

凡驭之道,在中原大陆,黄帝时期就已出现;而在日本,则从天武天皇时期开始,直到今天,传承与学习之道一直未曾断绝。在这个过程中,往往有人达到了骑马之道的妙境,能进入精深的领域。人们继承了这个技艺,并没使其失传。然而,随着京都将军家末期,天下大乱,许多家族的传承消失,只有小笠原家在马术上有所传承。其后,其他家族也纷纷依赖这个传承。在这些家族中,大坪庆秀在众多武士中脱颖而出,掌握了精妙的技艺,又有八条江州悟得了微妙的奥义。因此,他们的弟子各自创立了自己的流派,因此,后世所谓的马术,恐怕无非就是出自大坪与八条这两人。至今为止,世人称这两位为马术中兴之祖,这是大家都知道的事情。虽然在唐土有王良、造父(周代御车的名人)等,但他们的技艺与后世的骑术有很大的不同。而日本所尊崇的,是专注于骑马技艺中的骑乘之法,并且用于武事中,取得了不小的成效。因此,唐土也开始了骑马技艺的传承,然而到后来,似乎并没有出现过特别有名的骑术大师。因此,驾驭的德行是一种可以横行千里、神速灵活、自由自在的高妙技艺。而在武门之中,无论是治世还是乱世,君主都要亲自骑马,行走在朝堂与民间之间。这种德行像座位上的坐姿一样,尊卑有序,是学习与实践的道路。正如古人所说,“弓马是武士的左右”,又称之为“车的两轮”,这同样适用在马术上。我个人认为,马是阳性的动物,生来具备骑乘的价值。因此,驾驭者了解马的性情非常重要。如果驾驭者不了解马的正邪气息,而只凭自己的邪气去掌控马,结果反而会让马失去正心,自己也会增加不良气息,损伤马的嘴和脚,最终认为这就是驾驭技艺的精髓。这样的人不是在骑马,而是在被马驾驭。驾驭之道,首先要正心诚意,了解自己要骑乘的马的气息,才能恰如其分地骑上去。其技艺要帮助马保持正气,矫正邪气。当驾驭者与马之间的气息相通时,马便会像跟随自己的手脚动作一样听从指令。因此,驾驭之法,关键在于正心诚意,并深入了解马的性格。一旦了解,就能根据马的性情调整自己的骑乘方式,如上马、下马、从左侧接近、从右侧接近,依照马的特性进行变化,这并不难。因此,马也会跟随节奏,展现出七种步法。

 

愚歌に、

  七段の足も乗手の心なり

    気をしづめてぞたづねあつべし

 

愚歌曰:

七种步法也是骑手心法的体现,

必须沉静心气,方能探求掌握。

 

故に、前にいふごとく、馭者と馬と和順する処を以て、専ら工夫をなさば、たとへ瘦馬の力おとろへ神弱なる老馬といへども、修行にならざるはなし。世俗称していふ廣場の修行、又はふとくたくましき馬を常に乗らされば上達しがたき等の言、是全く馭法を弁へざる者の言なるべし。中興八条流より出て、近授流といふあり。此流などにては、輪乗·龍子形のみにても、馬術修行はなる者といふ。是誠に其妙所に工夫を用ゆる流なり。予此術を学ぶこと久しといへども、所謂神速活潑の術に疎く、たやすく其域へ入ことあたはず。常に瘦馬に乗らるゝのみ。せめて我童蒙、よき先輩の導を得て、物我通和して、彼妙所に至らんことこそ願しけれ。

 

因此,正如前文所说,如果能专注于追求驾驭者与马匹之间的和谐顺应之境,即便是体力衰弱、神气虚弱的瘦马或老马,也并非不能成为修行之用。世间俗语中常说“必须在宽广场地中练习”或者“经常骑乘强壮有力的马才易进步”之类的说法,其实完全是对驭马之法不了解之人所言。自中兴八条流而出的近授流等流派中,甚至认为仅以打圈和龙子形也足以完成马术的修行。此等流派,实是将工夫用在其微妙之处的精妙流派。我虽长期修习此术,但对所谓神速活泼之术仍感生疏,难以轻易进入其境界。常常所骑之马,仅是瘦弱之马而已。唯愿我这等初学之人,能得良师引导,使身心物我融通,终能抵达那妙境之所在。

 

剣術の説

凡剣術は、依て来れること遠し。そのゆへいかにとなれば、是神術にして、むかし景行帝の皇子日本武尊、其神術を傳へ得給ひて、はじめて三段の位をなし給ふとなり。中頃にては、陸奥守源義家これをまねびて、五段の位をつくるともいへり。又鎮西八郎為朝は、此術を肥後の国の住人尾伊平次郎太夫則高に習ふて、其技師に越たり。又伊豫守義経は、此術を鞍馬の僧正坊に習ふて名誉を顕す。常陸鹿嶋の神人、其長たるもの七人、刀術を以て業として、後世関東の七流と称する者、是なり。竊に按ずるに、中頃武道盛に行はれしより、士と庶人と分つ處如何となれば、両刀を帯するとしからざるとの二つのみ。されば、両刀を帯すれば、野人も士を弁へ、無礼もなく、尊卑の等も定ることとはなりぬ。然るを弁へなき者は、只空しく両刀を帯せるのみにして、其本意をしらず。しかのみならず、又是を用ゆるの術業をしらざれば、何を以て士とし仰がんや。諺に犬をどしといふも、此本意を失ひし人をそしりての鄙言ならん。故に志士は、専ら此術を修行して、一の太刀筋を得るも、一の士道に入と心得、一振一歩も心を用ひて、因敵転化して、事先たらざるの工夫をなすべし。然ども、其術にのみ達して、己が心術をみがかざれば、また士の道もあらず。事術に達するのみは、農民といへども亦なす處なり。畢竟此術は、士たる者孝弟忠信を行ふの助けなれば、何ぞ人を斬を以て本意とせんゃ。

 

剑术,其起源甚为久远。若问其因缘,盖此术乃神术。相传古时景行天皇之子日本武尊得传此神术,于是首创了“三段之位”。中世时期,陆奥守源义家又仿效而设立“五段之位”。又有镇西八郎·源为朝,自肥后国的尾伊平次郎太夫则高习得此术,技艺精湛,超群于众。另有伊豫守源义经,向鞍马山的僧正坊学习此术,亦因而扬名显赫。常陆鹿岛的神官,其中七位首领以刀术为业,后世称之为关东七流,我私下考察,自中世武道兴盛以来,士人与庶民的区别为何?唯有一点:是否佩带两把刀而已。凡佩带双刀者,即便是乡野之人,也能识士之礼,不致无礼,尊卑之别也得以确立。然不明此理之人,仅徒然佩刀而不知其本意;更有甚者,若不懂得运用之法与技艺,又凭何为士而受人尊敬?俗说的犬武士,即是讽刺这类不知本意之人。因此,志在修身之士,应专心修炼剑术,即便只会一招刀法,也应视为踏入士道之门。每一挥刀,每一步伐,都应凝神用心,依据对敌之态势转化应变,苦思不得先机之应对法。然而,若仅追求技艺,而不锤炼内心与心术,则终非真正的武士之道。因为单纯掌握技艺之人,即使是农民也能做到。究其根本,此剑术乃是士人实践“孝、悌、忠、信”之德的辅佐,焉能将杀人为本意呢?

 

教訓歌に、

  剣術は人にきられず人きらず

    只うけ留て平かに勝つ

 

教训歌曰: 剑术在于既不被斩也不斩人,

只以受止平和取胜。

 

孝経に、身體髪膚父母に受て、毀ひ傷らざるは孝の始なりと云。されば君子は、遠き慮りありて、必近き憂ひなしといふて、君大なる憂に臨て、一身に傷つかざることは、此術の修行にありて、即我一身を敬するの厚きにして、剣に対するの道備り、直に忠孝の本意にもかなふべし。予是を学ぶことの久しきといへども、いまだ進退転化の至術に疎くして、一身の防を知らず。されども常の稽古、己を知ることを以て、終身の修行とするの本意なることを微弁して、童蒙のために、此に識すのみ。

 

《孝经》有言:身体发肤,受之父母,不敢毁伤,孝之始也。君子有深远的忧虑,方能无近忧。面对国君的大患之时,能够不使自身受伤,其本源正在于此术的修炼。这正是敬重自身、身心合一的体现,也正合于忠孝的真正本意。我虽久习此术,但仍未能通达进退转化的精妙境界,也尚不熟悉保护自身的方法。然而,日常的修炼是为了认识自己,并以此为终生的修行之本意,谨在此略述一二,以为后学者留记。

 

愚歌に、

  剣術は己をしりて己が身を

    正しく敵の技に違ふな

  うちむかふ敵の仕技に隨ひて

    変に應じて争はずかて

順風にあら波わけてゆく船も

真帆ひきかけてやすらかに見ゆ

 

愚歌曰:

剑术在于认识自己,端正自身之姿,

不可违背对手之技。

顺应敌人迎面而来的技法, 随其变化而应对不以争斗之心取胜。

即便是顺风破浪前行的船, 也需将真帆高挂方显其安然从容。

 

幼年の頃より剣術を好み、天明五年、小野半左衛門貞雄、この業の教授始られけるとき、先生の門に入、寛政八辰年まで、学ぶこと凡十二年、殆ど怠ることなし。其年先生免状の一卷を傳へ、秘術の太刀共不残相傳ありしかば、猶も行住座臥に心懸、享和二年に至て、惣て十八年の稽古なりき。此年七月十日、貞雄先生御小納戸の職命ぜられ給ふによりて、外交を辞し、先師より傅来一子相傳の印可を、予に傳へて、門人七拾余人をも譲られける。予元来この技未熟にして、人を導く器あらざれば、固辞し申せしかども、年来執心を見て譲らにしあれば、辞することなかれとて、強く譲られけり。同門免許の者六人あり。今より長通を我如くおもひてよなんと、こまやかにの玉ひて、道場のあつかひ彼これのこと、残なく人々へ頼まれける。扨かく譲をうけしかど、予が養父の賜て住める駿河臺の宅地はいとせばくして、道場を建べき所もなし。それがうへに社中の多くは、本所に邸宅ある人々なれば、同じ年、其三つ目に同姓矛太郎長栄が地を借て、道場をつくり稽古を始む。かく師の譲を受て、諸方相談の相手となれば、予が未熟は則人々子弟の未熟となり、殊に御家の人々を門人とよびて、この技未熟ならしめんは、皆我罪にして、いと心ぐるしきことゝおもひ、いよいよ己が拙きに恥て、ますます勤め怠らず。人々も亦風雨の厭ひなく、日々かの道場に来り、勤め励むこと大方ならず。大に此術に進める人、未期年ならずして数多出来けり。夫に彼徒のつれてあらたに入門の人もありて、今は百五拾人にぞ及びけり。扨四藝の中、此術におるて唯学ぶ處の始末を詳に述ることは、予が専ら志處此術なれば、よりて今こゝにそのよしを具に記す。

 

我从幼年起便喜好剑术。天明五年,小野半左卫门贞雄先生开始教授此术时,我即入其门下,至宽政八年辰年止,前后学习约十二年,几乎未曾懈怠。那一年,先生授予我一卷免状,并将秘术之太刀全部毫无保留地传授给我。此后我更加专注于“行住坐卧”之间的修养,到享和二年为止,修行整整十八年。那年七月十日,贞雄先生因被任命为御小纳户的职务,遂辞去对外授课,并将其师承的一子相传的印可授予我,同时也将门下七十余名弟子一并托付于我。我本自觉技艺尚未纯熟,未有引导他人之才,曾坚辞不受。然而先生见我多年执着之志,不肯让位他人,坚持不让我辞退,最终强行将之传予我。当时同门中已有六位获得免许之人。先生对众人告诫:今后要将长通(作者长快曾用名)视做我一样,并将道场的经营事务等事宜一一托付。虽承此重任,我所居住的骏河台宅邸为养父所赐,土地狭小,无法建道场。况且门下弟子多居于本所地区,因此我便在同姓矛太郎长荣的土地上借地建道场,开始稽古。自承师业以来,我成为众人请教之对象,若我技艺未纯,弟子之术亦难以精进。尤其是将御家之人作为门人,若使他们技艺不精,便是我之罪过,内心甚为痛苦。因此,我越发以自身拙劣为耻,不敢懈怠,勤奋不止。门人们也不畏风雨,日日前来稽古,其精进之气势不可小觑。即便入门不久,已有多人大为进步。随着这些弟子之带动,新门人陆续加入,如今已达一百五十人之众。至于四艺之中,唯有此术我专心修习,故在此详记我学习的经过。

 

鎗術の説

 

凡鎗術は、遠き神代のむかし、大己貴の尊の廣矛、其後中大兄の皇子長鎗を用ひ給ひしよりをこれるものならんか。されども其後、是を用ゆるものなかりしに、楠正成、一族の安間了願といへる者に命じて、初て是をつくらしむといへり。上古の槍、後の世是を鎗といふ。戦国以来、此術に達する者許多にして、流派ますます繁多とはなりぬ。されば永禄年中に鎗を以て五兵の上功に定られしより、戰場にも戰をいどむのはじめ、一二三の数を定め、勇をはげまして戰に臨で、鎗下の功名あれば、格別の賞恩あり。さるからに、鎗は士の必ず左右におくべき兵器たるを以て、今太平の御代といへども、士たる者門外に出るごとに鎗をもたすることなり。然るを、其位に居て、是を用ゆるの事術を知らざれば、伊達道具を持たするに異ならず。されば、何を以て武士と仰ぐにたらん。君戦場に臨めば、是にうへたる兵器あるまじ。昔、戦国のをりから、其軍功十人が中に、八九人は此術に勝利あること、古き文にあまたありて、皆人のしる處なり。さるに依て、前にいふ如く、鎗下の功名、又は一番鎗抔といふて、其功を称美す。是、他の技藝になき名誉の兵器なり。竊に按ずるに、常の修行に、先づ己が心をまどかにして、勇てよく忍び、忍びてよく勇み、勝気、引気の憂ひを去て、身体をととのへ、敵の鎗に應じ、一己を務むるに懸待の大事あり。尤予寶蔵院流を学び、専ら入身の修行を常とすれば、直鎗の事に拙し。特に直鎗のことに拙きのみにあらず、常に学ぶ處の入身のことも亦拙くして、懸待の度を失ふこと今に久し。然ども、入身におゐてはかくもあらんかと、少し志處の一端を記して、猶悟れる武者の助けを希のみ。

 

枪术最早可以追溯到远古时代,传说中,大己贵(神话人物)使用广矛开始,后来中大兄(飞鸟时代的天皇)的儿子也使用长槍。之后,虽然很长时间没有人再使用枪术,但楠正成和他的族人安间了愿开始命令制作枪。上古时期的“槍”,后来被称为‘鎗’。战国时代以来,掌握此术的人越来越多,各流派也随之繁多。至永禄年间,枪术成为了五兵之一,并开始在战场上广泛应用,确立战功激发勇气,在战斗中迎接挑战。根据枪下的功劳授予特殊的奖赏。从那时起,枪成为武士必备的兵器,哪怕是在和平时代,武士出门时也会带着枪。如果身为武士却不了解使用枪的技艺,那就像拿着装饰用具而不知其用途一样。若如此,又何以称为武士呢?君主若要亲自出征,则不应携带比枪更强大的兵器。古时战国时期的许多记载中提到,在战场上,十个士兵当中,有八九人依靠枪术获得胜利,这些记载是人尽皆知的。因此,如前所述,枪下的功名,或者是第一枪之类的称号,都是对其功绩的赞美,这是其他武技所无法比拟的荣誉。我个人认为,平时的修行,首先要让自己的心保持清明,勇敢且能忍耐,忍耐后再展现勇气,摒除懦弱和犹豫,身体保持良好状态,随时准备应对敌枪的攻击,在面对敌人时做好耐心等待的准备。我学习了宝藏院流,专注于入身的修行,但对于直枪术却显得笨拙。并且,除了直枪之外,平时学习的入身之术也做得不够好,久而久之,错过了悬与待的时机。因此我在入身上方面也记录有些许体悟,希望可以得到觉悟的武者的帮助以继续努力。

 

愚歌に、

  ひけ気なく勝気をこらへまどかにて

    曲尺の違はぬ 懸待ぞよき

 

愚歌曰:

不退缩不挣强,保持圆融的心境, 如曲尺般无误的应敌才是良好的悬待。

 

此術、前に専ら軍中に利あることを記し待るといへども、常に戰場の稽古として、戦を待にあらず。恐おほくも、むかし神君、侍座の群臣への玉ひけるは、乱世に武を嗜は珍らしからず。たとへば、鼠の人にとらへらるゝをくるしみ、喰付がごとし。治世に武道を励むを真の武道を好む人といふベし、と仰ありしとぞ。実にありがたき御教なり。又司馬法に、国大なりといへども、戰を忘るゝ時はあやうしといへり。故に治世に武を忘れざるこそ、実に志士とは称すベけれ。されば士たるもの、常に此術を翫ひ、切磋の修行すべきことにこそあるべし。

 

此术,虽前文已述其在战场上的实用价值,但平时的练习,并非为了期待战争。据传,昔日德川家康对群臣曾训示曰:“在乱世喜好武艺者,并不稀奇。譬如老鼠被人捕捉,挣扎着咬人一般;唯有在太平之世仍勤于武道者,方是真正热爱武艺之人。”此言,实在是值得感佩的宝贵教诲。又《司马法》中言:“即使国家安定,若忘战,则危矣。”因此,在治世中仍不忘修习武艺,才真正堪称为志士。

士人理当常以此术为嗜好,日复一日锤炼磨练,方为应有之修行。

 

四藝の心術

 

こゝにいふ四藝初学の修行は、いかにも己を虚ふして、能師の直しを守り、道場にありて同門の徒、師より直しなど受ることあらば、よく心を留て、猶己の修行とすべし。又常の稽古をはれとし、はれを稽古とする心得第一也。又何事も忍びこらゆること肝要にして、武術におゐては猶然り。むかし戦国のころ、内藤四郎左衛門正成、同三左衛門信成の兄弟は、御当家に聞へ高き射手にて、兄の正成は尤其技に長ぜり。或時、兄弟集り雑話の時に、正成弟にむかひ、御身の射術我におとれり、弓力も又我に及ばず、然るに戦場に臨めば、敵を射おとすこと毎に我に勝れるこそ心得ず、是は何ぞ格別の術にてもありやといひ侍れば、信成打笑て、夫は兄人には臆する気ある故なりといふ。正成其故を問ふに、信成答たるは、我等ことは、敵追来れども弓を引て猶放たず、鎗先我こぶしにとどかんとするに及で、発なり。夫ゆへ外るゝことなく、あだ矢一筋も射ることなしと語りしかば、兄をはじめ一座の面々、横手を打て感称すと。又むかし、宮本武蔵は両刀の名誉ありて、細川家に仕へり。或時京師より豊前の小倉城に趣く道すがら、佐々木岸流といへる剣術者下関に待て武蔵と試合せしことあり。武蔵は舟欋を削りて両刀を作り、岸流は三尺余の直剣にて拝打に斬處を、武蔵両刀を組て受はづし、其頭を打に、岸流身をふりて左の肩に中る。其勢にふみ込、横に拂ふ。武蔵足をちぢめて飛あがれば、革袴の裾三寸斗切落せり。武蔵全力を出して是を打に、頭微麈に砕て即死すと。此等のこと、古き文に見へたり。されば内藤如きも、忍びこらへて、身の危に毎々勝利を得。武蔵とても、革袴の裾をたゝるゝ程の危きに勝利あり。

 

此处所说的是四艺初学的修行,务必要虚心,能够忠实地遵循师长的教诲。在道场中,若有同门从师父那里得到指点,也要专心领会,将之视为自己的修行。又要把日常的稽古视为正式的试合,将正式的试合当作稽古来看待,这是一条最重要的心得。无论何事,忍耐克制至为关键,在武艺中更是如此。昔日战国时代,内藤四郎左卫门正成与三左卫门信成兄弟,是本藩家中闻名的弓术名手。兄长正成在技艺上尤其出众。某日兄弟闲谈,正成对弟弟说:“你的射术不如我,弓力也不及我,可在战场上却常常比我射中敌人更多,这让我十分不解。难道你另有特别的技艺?”信成听后笑着说:“那是因为兄长有些畏惧之心。”正成问其原因,信成答道:“我每次面对敌人追击时,都会等到敌人近在咫尺,几乎要用枪刺到我时才放箭,因此从未射偏,也不浪费一箭。”众人听后,连兄长在内都拍手称赞。又有传,昔日宫本武藏以双刀著称,仕于细川家。有一次他自京都赴丰前小仓城途中,佐佐木岸流在下关设擂挑战。武藏用削舟桨之木制双刀,岸流则持三尺长直刀,拜年打过去。武藏用双刀接住后打向其头,岸流闪避被命中左肩。岸流乘势横斩,武藏则缩脚跃起,虽袴下摆被削去三寸,但反击全力出击,击碎其头,当场将其打死。此事见于旧文。由此可见,如内藤般能忍能耐者,在危险时刻也能取胜;宫本武藏亦是冒险临敌之际得胜于毫厘之间。

 

关于宫本武藏的事迹在历史文献中的记录很少,且各自记录中互相矛盾。可能也是因此后世对宫本武藏的艺术创作才如此之多。

关于岩流岛决斗。宫本武藏的养子为其撰写的《小仓碑文》中记载为岩流高手约定与武藏在船岛决斗,其执三尺长剑被武藏用木刀击杀。《沼田家记》记载岩流高手是丰前国兵法家名为小次郎,因其弟子与武藏的弟子发生争执,双方约定不带弟子在船岛一对一决斗。小次郎只身赴约,但武藏的徒弟则事先在岛上藏了起来,因此小次郎被围殴致死。小次郎的徒弟知晓原委后追杀武藏。后因得到沼田延元的庇护武藏才得以脱身。《本朝武艺小传》中的记载是武藏与很多同伙一起来到船岛。《西游杂记》中记载与武藏交手的人为佐佐木岩龙,其在赴约时有人提醒他武藏带着一大堆人准备埋伏他。但他表示君子一言驷马难追,若对方不觉得羞耻那便一起上吧。结果不出意料岩龙身死。人们为了纪念岩龙,因此将决斗之地称为岩龙岛。此后逐渐有各种文献开始丰富此前岩流岛之战中未有的各种细节。后《二天记》中将其内容完善至如今一般大众所熟知的岩流岛决斗桥段。最后因吉川英治所著小说《宫本武藏》而广为流传。

而相对严谨的官方的记载中对武藏的记录只有xx年于xx家就任xx职位、xx年收养子xx赐名xx等等此类内容,并无武藏任何比武的描述。

既然说道这就顺便也说一下武藏与吉冈一门比武的事件。《小仓碑文》中记载,宫本武藏打败吉冈两位家主,后拒绝徒弟们的帮助独自一人面对吉冈一门百余位门徒,并杀死对方主将后全身而退。吉冈家从此断绝。但其他多部史料均有描述吉冈家仍有后人。《吉冈传》中则描述为,第一场吉冈家与武藏比武,宫本武藏认输并提出二番战,但随后武藏又放弃了二番战。后来吉冈家转行做染织生意,日文中俗称的“宪法色(一种深棕色)”便是以吉冈直纲的号“宪法”为名。《本朝武艺小传》中则记录其比武结果为平局。且无二番战以及后续的纷争。

详见笔者整理的宫本武藏与二天一流​

 

太田道灌、短慮不成功といふことを題して、

  いそがずばぬれざらましを旅人の

    跡よりはるゝ野路のむら雨

 

以「太田道灌、短慮不成功」为题的和歌:

若当初不匆忙便不会被淋湿。 旅人走了之后野路上的村雨便停了

 

又、道歌に、

  切むすぶ太刀の下こそ地獄なれ

    身を捨てゝこそうかむ瀨もあれ

 

又有道歌:

太刀斩下之处便是地狱; 唯有舍身才能脱险。

 

此等のおしへを翫び味はへば、惣てこらへ忍ぶ事肝要にして、武術におゐては、いよいよこらへ忍びて、己が身を捨るにあらざれば、勝利あらざるとなり。其こらへて己を捨るは誠の一字なり。されば道学の極所を記せし中庸三十三章も其極意といふは誠の一字なり。

 

如果细细体会这些教诲,便可知一切以忍耐克制为要,尤其在武术中,更需不断忍耐克制,若不能舍弃自身执念,就无法获得胜利。而这种忍耐并舍弃自我,正是“诚”字的真义。因此,记述儒家道学精髓的《中庸》第三十三章,其核心要义,也正是一个“诚”字。

 

古語に、勇士一呼三軍皆辟、士之誠也とありて、強勇の者一聲して呼べば、三軍の大勢といへども皆辟ること、実に誠の微妙なり。むかし唐の楚国に、熊渠子といへる者あり。夜行て石の寝たる如くなるを見て、虎の伏したると思ひ、弓引しぼり、ひやうと放てば、あやまたずして手ごたへせしかば、馬より下りて是をみれば石なり。されども、矢の羽ぎはまで、其石を貫けり。渠子是をあやしみ、又引しぼり射るに、矢は摧て迹もつかざりしとぞ。熊渠子其誠心をあらはして、金石もこれが為にひらけりと見ゆ。然ば、活物に於て、何ぞ誠の通ぜざらんや。

 

古语有言:“勇士一呼,三军皆避,此即士之诚也。”意思是说,刚强勇猛之人只要一声呼喊,即便是庞大的三军之势,也都会退避,这正是“诚”之力量的奥妙体现。从前在中原大陆的楚国,有位名叫熊渠子的人。有一晚他在夜间行走,看见前方仿佛有猛虎伏地,于是他以为那是虎,拉弓满弦,箭“嗖”地一声射出,命中目标时有明显的手感。他下马查看,才发现那其实是一块卧石。然而,那支箭却一直贯穿到了箭羽的位置,将那石头穿透。熊渠子对此感到惊异,便再次试图以同样方式拉弓射箭,却见箭立刻碎裂,连痕迹也没留下。据说,这是熊渠子以“诚心”发出的第一箭,连金石也因此而被穿透。既然连无生命之物都能因“诚”而通达,那么面对活物,又怎会无法感应于“诚”呢?

 

むかしさる浪人ありて、射術熱心なること衆に秀で、弓箭をたづさへ、其修行のために諸国徘徊せしが、或鄙邑に至り、民家にやすらひしが、主いひけるは、御侍の来り給ふこそ幸なり。此村の名主某といふもの、一人の娘ありて其愛心深し。然るに去日より狐つきて狂ひしかば、加持祈禱はいふもさらなり、手を尽し力を用ひぬこともなけれど、更に其しるしなし。いかなる老狐にかありけん、何卒御さむらひの御射術にて、彼狐を落し給はれかしと申ければ、元来修行の道なれば、いとやすくうけがひける。あるじ悦て彼侍を伴ひ名主の方に往て、しかしかのことをかたりければ、名主夫婦も大に悦び、慇懃にもてなしける。かくて狐を落さんと娘に向ひ、蟇目の修をなしけるに、いょいょ狂ひ其口の喧しきことかぎりなし。されば彼さむらいも術尽て、又明日来て落しもふさんと、以前の民家に立帰り、一宿して其夜つくづぐ思ひけるは、かく武士と頼まれしに其狐を落し得ず、何の面目ありて此邑をさるべきや。今此狐をおとさずんば、後日此術に何程達したりとも、今の恥辱をすゝぐベきか。それがうへに、下民の武道をさみしそしられんこそ、我一人の恥辱にあらず、武道にきずつけ、其威を落すにひとし。いでされば、明日は蟇目の術も打捨て、彼女を射殺し、我もいさぎよく腹かき切て死ベきと思ひこみ、夜の明るを待かね、早く出たちて、彼名主の方に至り、其一間に入ば、弓をもとらざるに、はや娘は平伏して、狐は即時に落たりとぞ。されば、いかなる尊き蟇目の術も、一心の誠にしかじ。是以て蟇目鳴弦も、一心の誠を本として、後に此術を施こと肝要なり。又予が学ぶ處の剣の術は、一刀流忠也派にして、流儀に尊む明剣あり。されば、化性ののり移りたるには、此太刀を遣ひて、落ざることなし。先師に服部弥五右衛門重安といふものは、浪人にしてあくまで此術を嗜み、其技に長ぜり。重安度々狐つきなど落したることあれども、明剣を遣ふまでもなく、其一間に入れば、狐つきたちまち平伏して落たりとぞ。或時、高弟集りて、先生の狐付おとし給ふは、明剣を遣ひ給ふまでもなく、即時に落候こと至妙なり。是は格別の極秘の術も候哉と問ひければ、先生答へけるは、外に極秘の術といふにもあらず。もとより此太刀を遣ひ、か様して落さんといふやうなる仕組にて、古狐などの落ることにあらず。我等は其一間に入、狐落ざる時は、其者ともに真二つに殺害する心得なりと、咄されたりとぞ。されば、いかに明剣といへども、誠にあらざれば、化性の恐るゝことなく、況や明徳をたもち得る相手を取て、是に勝事かたし。是以て、つくづぐ按ずるに、誠は天地の至妙にして、其正大微妙なること謀りがたし。故に四藝を学ぶ者、其極所に望て、いささか空虚の放心なく、正心誠意を尽すべきこそ、心術とやいふべきか。

 

从前有一位浪人,他对射术非常热衷,技艺在众人中出类拔萃。他随身携带弓箭,为了修行而在各地巡游。某日来到一个偏僻的村庄,在一户人家借宿。主人说:“有武士大人光临,真是我家的福气。这个村子的村长有一个女儿,非常疼爱。可是不久前被狐狸附身而发狂,虽请人祈福驱邪、尽了所有办法,却全无效果。大概是只非常狡猾的老狐狸,恳请武士大人用您的射术,将那狐狸驱除吧。”浪人原本就是为了修行而旅行,因此很爽快地答应了。主人非常高兴,带他一起前往村长家,说明情况。村长夫妇也十分高兴,款待周到。于是武士对着女儿施展蟇目(即响箭。日本认为响箭的声音可以除魔),但女儿却愈发疯狂,口中胡言乱语不止。武士技艺已尽,只好说明天再来尝试一次,便返回之前的那户人家。当天夜里他辗转反侧,心想:被当作武士信赖,却未能驱除狐狸,有何面目留在此地?若这次不能成功,今后再怎么精进技艺,也无法洗刷这次的耻辱。更何况,还会让百姓轻视武道,这不仅是我一人的羞耻,更是对武道的玷污,等同于损其威信。所以,明天我将不再使用蟇目之术,而是直接将她射杀,然后我也切腹自尽,以保名节。(难办?那就别办!掀桌)他抱着这样的决意,天一亮便早早出发前往村长家。刚一进入那间房间,还未拿起弓,女儿便已平伏在地,狐狸也当场退去。由此可见,再尊贵的蟇目之术,也不如一心的真诚。所以施术者必须以真诚为本,方能使之生效。我所修习的剑术,是一刀流忠也派,其流仪最重要的是“明剑”,用于驱除附身之灵,从未失手。我的前师服部弥五右卫门重安,是位浪人,非常热爱这门技艺,技艺高超。他曾多次驱除狐附等附体之灵,甚至不必动用明剑,只要进入房间,那些附体就立刻平伏而退。有一次,弟子们聚集在一起,问老师说:“您不动用明剑就能驱除附身,真是神妙莫测。这是否是某种极秘之术?”老师回答说:“并无特别秘术。就算用明剑施术,也无法让老狐狸退去。我进入房间之时,若狐狸不退,我便立刻将其人连同狐狸一并斩杀。这便是我的觉悟。”(有点歪打正着的感觉……如果患者装疯卖傻或者病情不严重的,被来这么一出也得吓得说自己已经好了)因此,即便是明剑,若无真诚,灵体也不会畏惧。更不用说,若对手是拥有明德之人,那就更难胜过了。由此深思,“诚”是天地间最微妙玄妙的存在,其正大与细腻,难以揣测。因此,修习四艺之人,若欲追求其极致,应当毫无空虚杂念,秉持正心诚意。这才可称之为“心术”。

 

后文还有一小部分名为“武士の心得”的章节。其内容皆是些食君之禄忠君之事、一日之计在于晨之类的儒学内容或劝学谚语。因为这不是笔者做整理的初衷,因此仅选取了与古武道相关度较高的部分(但此篇其实相关性也没多高)。

全文终